ウイルスと地球生命

著者名:山内一也

発行年:2012年4月13日

発行所:株式会社 岩波書店

ISBN:978-4-00-029592-5

 

著者略歴

北里研究所、国立予防衛生研究所、東京大学医科学研究所教授、日本生物科学研究所主任研究員などを経る。東京大学名誉教授、日本ウイルス学会名誉会員、ベルギー・リエージュ大学名誉博士。


引用


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1 ウイルスはどのようにして見いだされたか?

微生物が病気を起こす――ウイルスが見つかるまで

感染症は細菌やウイルス(コラム「ウイルスという呼び名」参照)などの微生物が原因で起こる。このことが明らかになるまでには、長い歴史があった。古代では、天然痘などの病気は神罰ではないかと考えられることもあったが、身分や人種に関係なく起こることから、この考えはすたれていった。紀元前四世紀頃、医学の父と呼ばれていたヒポクラテス(Hippocrates)は、病気の原因としてミアズマ(瘴気)説を提唱した。ミアズマとはギリシア語で「汚染」を意味する言葉で、腐った野菜、腐敗した死体、汚れた沼などから出る汚染した空気に触れることで病気になるという考えである。これがもっとも一般的な受け止め方だったが、その頃には病気のもうひとつの原因としてラテン語で毒の意味のウイルスという言葉も普通に用いられていた。

一四世紀頃から天然痘やペストなどの流行がはげしくなり、これが患者の異動などで広がることから、病気はなにかそれを媒介するもので起こるのではないかという考えが強くなっていった。一六世紀に、イタリアの医師ジローラモ・フラカストロ(Girolamo Fracastoro)は口蹄疫など家畜の病気の広がり方から、病気はミアズマではなくコンタギオン(ラテン語で「伝染」の意味)によるという考えを提唱した。一六世紀には顕微鏡が発明された。一六七六年、オランダのアントニー・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek)は自作の顕微鏡で微小な生物の存在を見つけて王立協会に報告した。これは細菌の最初の観察であった。

一八六〇年、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)はワインやビールの発酵が「生きた微小な生物」すなわち微生物の増殖によることを初めて証明し、そののち蚕の病気が微生物により起こることを明らかにした。一八七六年には、ロベルト・コッホ(Robert Koch)がヒツジの炭疽菌を固形培地の上で純粋に培養し、それをヒツジに接種して炭疽を起こすことを証明し、コンタギオン説は細菌説として、確立されたのである。これがきっかけとなって、病気の原因としての細菌の狩人の時代となり、結核菌(一八八二年)、コレラ菌(一八八三年)、ジフテリア菌(一八八四年)、大腸菌(一八八六年)、破傷風菌(一八八九年)といった細菌が続々と分離されていった。

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最初のウイルス発見――口蹄疫

パスツールは一八八〇年頃から狂犬病の予防に取り組み始めた。しかし、間違いなく病原体が存在すると考えられた狂犬病の犬の脳を顕微鏡で調べても、どうしても最近は見つからなかった。そこで彼は、顕微鏡で見つからない微生物をウイルスと呼ぶことにした。感染症の病原体にウイルスの名称をつけたのはパスツールであった。

それからまもなく、家畜と植物のウイルスの存在が明らかにされることになった。当時、牛の間では口蹄疫の流行が続いていて畜産における大きな問題になっていた。すでにジフテリア菌の発見で有名になっていたコッホ門下のフリードリッヒ・レフラー(Friedrich Loeffler)は、ドイツ政府の命令を受けてパウル・フロッシュ(Paul Frosch)と共同で口蹄疫の研究を始めた。彼らは、口蹄疫は細菌による病気と考えていた。すでに同僚の北里柴三郎とエミール・ベーリング(Emil Behring)がジルテリア菌の毒素に対する免疫血清(抗毒素)によるジフテリアの治療に成功していたことから、彼らは口蹄疫の牛の水疱中にも抗毒素に相当するものがあると考え、これで予防することを試みた。水疱にはいくつもの細菌が混ざっているため、まず発病した牛の水疱を素焼きの陶器で作ったシャンベラン細菌濾過器を通過させ、細菌を除去したサンプルを牛へ接種してみた。ところが期待に反して、牛は感染して発病してしまった。繰り返し実験を行っても成績は同じだった。濾液には顕微鏡で病原体らしいものは見つからなった。さらに濾液接種により発病した牛のリンパ液を希釈して健康な牛に接種しても発病を起こすことを確かめた。その結果、彼らは口蹄疫の病原体は細菌濾過器を通過するもので、これが増殖することにより病気が起こると結論し、その結果を一八九七年に発表した。これが動物ウイルスの最初の発見となった。

当時、北里柴三郎はシャンベラン最近濾過器よりも目が細かい濾過器を開発していた。彼らは北里濾過器も試してみたのだが、この場合にはシャンベラン細菌濾過器の場合よりも病気を起こす比率が低下した。この結果を、彼らは口蹄疫病原体が北里濾過機に補足されたものと考え、口蹄疫病原体は粒子状であって、微小な細菌と結論した⁽⁴⁾。

同じ頃、植物の分野でも同様の研究が行われていた。タバコモザイク病の原因解明の試みである。これはタバコの葉に斑点が生じ最後には穴が開く病気で、一八七七年にはドイツのアドルフ・マイヤー(Adolf Mayer)が病気の葉をしぼった液体が健康なタバコに病気をうつせることを明らかにしていた。この病気にかかったタバコの葉は商品価値が低下するため、タバコ栽培業者は非常に恐れていた。オランダの土壌微生物学者マルチヌス・バイエリンク(Martinus Beijerinck)は、タバコモザイク病にかかったタバコの葉のしぼり汁をシャンベラン細菌濾過器を通過させても、タバコに病気を起こすことを明らかにした。さらにこうして病気になった葉のしぼり汁をふたたび細菌濾過器を通過させたのち希釈しても、タバコに病気を起こせることを確かめた。彼はこの病原体を「生きた液性の伝染体」と名付けて、レフラーと同じ一八八七年に発表した。

こうして、同じ年に動物ウイルスと植物ウイルスの発見が報告されたのである。

実はそれ以前の一八九二年に、ロシアの学者ディミトリ―・イワノフスキイ(Dimitri Ivanowski)はすでに同じようにこの病気のタバコの葉のしぼり汁が細菌濾過器を通過させてもタバコモザイク病を起こせることを見出していた。しかし彼は、病原体は細菌であってそれが産生した毒素が濾過されてきたものと考えていた。さらには、用いた細菌濾過器にひびが入っていたため、細菌が通過したのではないかとも疑った。イワノフスキイがウイルスの最初の発見者というべきであるが、実験結果の解釈が誤っていたため、ロシアの人々など一部を除いて、一般にはレフラーとバイエリンクがウイルスの最初の発見者とみなされている。

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2 ウイルスは生きているか?

第1章で述べたように一八六〇年にパスツールは、ワインやビールの発行の原因として酵母(イースト菌)を見出した。これが細菌の最初の発見である。かれはこれを「生きた微小な生物」と呼んだ。この名称に対して、一八七八年、フランス人外科医のシャルル・セディヨー(Charles Sedilot)が、医学アカデミーで外科学の進展におけるパスツールの功績*を讃えた講演で「微生物(microbe)」と呼ぶことを提唱した。この呼び名が普及して、細菌をはじめ、続いて発見されていたウイルスも微生物と総称されるようになった。当時、ウイルスは小さな細菌と考えられており、どちらも生物の一種とみなされていた。

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そこでウイルスは生物か無生物かという議論が盛んになっていった。名著とされた川喜田愛郎の『生物と無生物の間』が非常に論理的にこの問題を整理した。ウイルスは細胞の外では単なる物質といえるが、細胞の中では、自主性を持った生物として振る舞う存在であり、生物と無生物との間には常識的な、はっきりした線を引くことは難しいという見解をまず示した。そして、ウイルスは生物でもなければ無生物でもなく、生物と無生物の境界に存在するものという考えを説明したのである。

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病気の原因としてのウイルスを対象とした医学領域の研究者は、感染症の実体から無意識のうちに、ウイルスは生きているとみなしてきている。一般にも「ウイルスの死滅」といった表現が抵抗なく用いられている。

一方、分子生物学者の多くはウイルスを研究材料とみなすだけである。しかし、実際には、分子生物学はウイルスを生物の細胞の中では生きているとみなして、生物の遺伝子の働きを調べるための研究手段として利用することにより進展してきた。立場によりウイルスはさまざまな形で捉えられているのである。次章以降で述べるような地球所でのウイルスの実態を眺めると、ウイルスが生物か無生物かといった分類についての議論よりも、地球生命全体の中でのウイルスの重要な役割に注目した、より広い視点からとらえるべきであろう。

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人はさまざまなヘルペスウイルスに感染するが、その中でももっとも代表的なものは、単純ヘルペスウイルスと水痘ウイルスである。この二つのウイルスは子供の時に感染したのち、神経細胞の中に入り込み増殖することなくいわば冬眠状態になって潜伏する。単純ヘルペスウイルスは、風邪を引いたり強い紫外線にあたったりすると、眠りからさめて唇の粘膜の上皮細胞に異動し、そこで増殖して口唇ヘルペス潰瘍の病変を作る。この際には唾液にウイルスが含まれていて、まだ感染していない子供に感染を広げる。一方、大人が激しい痛みを伴う帯状発疹になることがあるが、その原因は子供の時に感染した水痘ウイルスである。水痘ウイルスは呼吸器や皮膚病変から主に空気感染により子どもの間で広がる。感染した子どもが水痘から回復したのち水痘ウイルスは神経細胞に潜伏し、成人になってから免疫力が低下した際などに感覚神経に沿って増殖し帯状発疹を起こしているのである。

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動物ウイルスは図7に示した五つの段階を経て人ウイルスに進化すると考えられる⁽¹³⁾。第1段階は動物の間だけの感染である。第2段階が動物から人への感染であるが、この段階では感染した人だけで終わり他の人に広がることはほとんどない。第3段階では動物から人に感染し、さらに人の間で二次感染や三次感染まで起こすようになる。第4段階では、動物からの感染が人の間で広がり続けるようになる。第5段階になると、完全に人ウイルスになって動物は介さず人から人に広がるようになる。