原 題:「Béchamp or Pasteur? - A Lost Chapter in the History of Biology」
著 者:Ethel Douglas Hume
出版年:1923
掲載本:「BÉCHAMP OR PASTEUR? - A LOST CHAPTER IN THE HISTORY OF BIOLOGY」(PDF)
モンタギュー・R・レヴァーソン医学博士の原稿に基づく。
1923年に初版が発行され、その後改訂版が発行された。
目次
1.はじめに
第1章 発酵の謎
2.諸説紛々
5.主張と矛盾
6.可溶性酵素
第2章 ミクロザイマ
8.「小さな物体」
9.蚕の病気
10.実験室での実験
11.自然が起こした実験
12.不満を募らせる盗用問題
何年も前のニューヨークで、モンタギュー・レヴァーソン博士は偶然、アントワーヌ・ベシャン教授の著作に出会った。彼はこのフランス人科学者の見解にすっかり魅了され、ベシャン教授と知り合いになるためにパリに行く最初の機会をつかんだ。レヴァーソンはベシャンが亡くなる数ヶ月前にパリに到着し、彼から直接、彼の発見と古今東西の科学に対する彼の批判的見解についての説明を受けることができた。
1908年、パリでベシャン教授の葬儀に参列した後、レヴァーソン博士は再びイギリスを訪れた。その1、2年後、私は彼と知り合う機会に恵まれた。レディ・キャスリーン・ブッシュが企画した会合で、私たちは二人とも講演者だった。
レヴァーソン博士はまだ元気でいた;少し後、80歳で2度目の結婚をしたほどである。アントワーヌ・ベシャンに対する彼の熱意は、 パストゥールに対する嫌悪感以上に大きかった。彼は私にミクロザイマについてよく話してくれたが、その言葉の意味を説明することはなかった。そのため、自分で調べる必要があった。
私は大英博物館の閲覧室に行き、長年の友人であるR・ストレットフィルド氏を呼んだ。
「フランスの生物学者、アントワーヌ・ベシャン教授をご存知?」私は彼に尋ねた。
「全く存じ上げません。」と彼は答えた。「ここにあるのが生物学の研究の全てです。残念ながら、私にできることはそれだけです。」
彼は私を、主要な書棚に並んだ大巻の書物の前に立たせたまま立ち去った。何かの外的要因に突き動かされるように、私は腕を伸ばし、一冊の本を取り出した。無作為にページをめくった。目の前のページにベシャンの名前を見つけた。私の調査は始まった瞬間に終わった。この偉大なフランス人に関するたった一つの短い文献から、私はさらに調べることができ、ミクロザイマが、多くの細胞学者が観察している細胞顆粒であることを発見した。
何日か研究した後、私はその結果を論文の形にまとめた。この論文をウォルター・R・ハドウェン博士に貸したところ、博士が編集していた雑誌『The Abolitionist』の次号でこのテーマについて執筆してくれた。しかし私は、最初に書いたこの問題の取り上げ方に不満が生じたため、論文を全面的に書き直し、『生命の原初的設計者(原題:Life's Primal Architects)』というタイトルで『The Forum』に掲載された。その後、この論文は『The Homoeopathic World』に掲載され、南米の定期刊行物『Hispania』のためにスペイン語に翻訳された。
故アーノルド・ラプトン氏は、かつてリンカンシャー州スリーフォードで自由党の国会議員を務めていたが、そのとき、この論文を小冊子として出版する許可を求めた。この形態で何度か出版された。
1915年、私はラプトン氏から、マンチェスターで開催される英国協会の会合に、彼のゲストとして彼と彼の妻とともに出席しないかという招待を受けた。私は喜んでお受けした。時間はあっという間に過ぎた。ラプトン氏が彼の私に対する親切なもてなしの本当の目的を明らかにしたのは、出発の日の朝になってからだった。
原稿を見ずに、彼はレヴァーソン博士のベシャンに関する著作を出版すると約束していた。タイプスクリプトを受け取った彼は、原稿の状態から出版は不可能だと判断し、私に編集を依頼した。このような状況で、断ることは難しかったが、私も依頼された仕事がどのようなものかは知らなかった。原稿が私の手元に届いたとき、その内容は、主にベシャンの著作からの引用が、参考文献もなく、ごちゃごちゃと並べられているだけだった。
「編集する本などありません。」とラプトン氏に言わざるを得なかった。「まだ本は書かれていないのです。」
彼は私にこの仕事を実行するよう強く求めた。
早速、レヴァーソン博士と私に意見の相違が生じた。彼はパストゥールの「捏造実験」と呼ぶものについて説明したいと希望した。ラプトン氏も私も、パストゥールの軽犯罪はベシャンの業績よりも重要ではないと考えていた。ただし、両者が互いに影響し合っていたのであれば別だが。それ故、「捏造実験」を除外したのだが、これがレヴァーソン博士を苛立たせた。彼は自分の原稿を私に貸した本のほとんどと一緒に返却するよう求めた。私は、自分の目的に必要な数冊を残して、残りは彼の原稿と一緒に送り返したのだが、その残した原稿はほんの数週間私の手元にあっただけで、二度と見ることはなかった。
私はパリからベシャンの著作物を取り寄せたが、私の要請により、出版局の担当者が同書を購入し、大英博物館の図書館に所蔵させ、現在も閲覧可能である。
私が取り組んでいた仕事を『ベシャンか?パストゥールか?-生物学史における失われた一章(原題:Béchamp or Pasteur? A Lost Chapter in the History of Biology)』と名付けた後、私はまずベシャンの生涯について詳しく知ることに専念した。 ベシャンの関係者との長い手紙のやりとりが続き、最終的には義理の息子であるエドゥアール・ガセールから、本書の序章に掲載されているすべての情報を得ることができた。
フランス科学アカデミーの会議報告を徹底的に調べることが、私の次の仕事だった。その際、大英博物館職員の好意により大いに助けられた。北図書館の長テーブルを自由に使えるようにしてくれたのだ。そこには、膨大な量のComptes Rendus( 会議録)が、私が読み終えるまで置いておくことが許されていた。
私の仕事が終わりに近づいたとき、私はラプトン氏とともに原稿に目を通し、有益な批評をいくつかいただいた。この原稿をジャド・ルイス氏にも提出した。彼は科学的な点をチェックし、ベシャンが研究で大いに活用していた偏光計の動作を親切にも見せてくれた。別の研究室では、カリオキネシス(有糸核分裂)のさまざまな段階を顕微鏡で見せていただいた。
これらはすべて、第一次世界大戦が激化している最中に行われた。出版には不向きな時代だった。私の原稿はトランクの底に追いやられ、私は結婚してスコットランドに住むことになった。しばらくの間、私の心はベシャン教授のことから遠ざかっていた。
結局、英国に戻ってから、私はこの本を全部書き直した;実際、この本の大部分を3回も書き直した。それから、面倒な仕事の段取りが始まった。それは夫の助けなしではどうすることもできなかった。拙著『生命の原初的設計者』は、私の了解を得ることなく、すでに治療学に関するアメリカの著作物の一章として利用されていたので、米国の著作権を得るためには、この『ベシャンか?パスツールか?』を合衆国で出版する必要があると思われた。
そして1923年、ついに初版が出版された。レヴァーソン博士は依然ご健在であったが、そのことは過去の記憶となっていた。最初の2,000部が売れると、ラプトン氏は第2版の出版を熱望して下さった。それが実現したのは、1930年に彼が亡くなって間もなくのことだった。彼が亡くなる数日前、私は彼に会う機会に恵まれた。私の苦悩に対して彼が与えてくれた素晴らしい加護を、私は決して忘れることはないだろう。私の背を強く押してくれたおかげで、この試みは私の望みをはるかに超える成功を収めることができたのだから、私は常に彼に感謝しなければならない。
私を援助してくれた人たち、特にハミルトン公爵夫人ニーナ・グレースとブランドンに感謝の意を表したい。
ベシャンの母国からも多くの激励があった。まず第一に、何よりも著名なポール・シャバノン博士からである。彼は、『Nous les ... Cobayes』などの屈指の医学書を著した人物である。 彼は『ベシャンか?パスツールか?』がフランス語に翻訳されることを切望していた。 この本は、ギュスターヴ・ラパン博士からも高い評価を得ている。彼はナント市のパストゥール研究所の所長である。彼は若い頃、科学アカデミーの論争の激しい会合に出席し たことがあり、そこではパストゥールが彼の見解に反対する者に対して怒鳴り散らしていた。その後のラパン博士の調査によって、ベシャンの意見に対する支持が揺るぎないものとなった。ギュスターヴ・ラパンは第二次世界大戦中に92歳で亡くなった。
エセル・ダグラス・ヒューム