ベシャンか?パストゥールか?

第2部

ベシャンか?パストゥールか?-生物学史における失われた一章


原 題:「Béchamp or Pasteur? - A Lost Chapter in the History of Biology」

著 者:Ethel Douglas Hume

出版年:1923

掲載本:「BÉCHAMP OR PASTEUR? - A LOST CHAPTER IN THE HISTORY OF BIOLOGY」(PDF)

 



1.はじめに

アントワーヌ・ベシャン

パリからほど近いヴィルヌーヴ・レタンで、1895年9月28日、稀代の科学者、人類最高の恩人と称賛されたフランス人が亡くなった。世界的な哀悼、国家的な栄誉、盛大な葬儀、長大な新聞記事、公的・私的な賛辞、これらすべてがルイ・パストゥールの死を悼んだ。彼の生涯は完全に記録された;銅像は彼の肖像を保存している;彼の名前は一つの体系に与えられ、彼の手法に倣った研究所が世界中に誕生した。この化学者ほど、幸運の女神がその恩恵を惜しみなく与えた人物はいない。彼は医者でもないのに、大胆にも医学に革命を起こすと公言したのだ。パストゥール自身の名言によれば、科学者に対する真の審判は、その後の何世紀にもわたる証言が下すのである。パストゥールの意見はもちろんのこと、彼の大胆さを謙虚に受け止め、私たちはあえてその彼に関する証言を探すことにしようと思う。

何が見つかるのか?

生物学史における失われた一章にほかならないが、この重要な一章は再発見されるべきであるし、本来あるべき場所に割り当てられるべきであろう。この章を知ることで、第一に、現代医学に対する私たちの理解全体が変わるかもしれないし、第二に、19世紀の傑出したフランスの天才が、実はルイ・パストゥールではない、別の人物であることが証明されるかもしれないのだから!

実際、この驚愕の章では、発酵の謎、蚕の病気の原因、そしてワインの発酵の原因を最初に説明したのはパストゥールであるという通説を否定した;さらに、彼の微生物に関する学説が、基本的な重要事項において、ある研究者の学説と異なっていたことを示した。パストゥールが常日頃主張していた発見の数々に関して、その研究者が真の発見者であったように思われる。

そこで、真理こそが我々の目的である以上、2人のフランス人科学者の生涯の業績について、これから述べる事実を辛抱強く公平に考察していただきたい。2人のうち1人は、今の世代の人々にはほとんど知られていないが、この分野に関する知識の多くは彼から得たものである。一方、もう1人の名前は誰もが知っている単語となっている。

パストゥールの死から12年半が経った1908年4月15日、パリの学生街の質素な住居で、92歳のご老人が息を引き取った。彼の葬儀には小隊の兵士が参列した。90歳を過ぎたピエール・ジャック・アントワーヌ・ベシャン教授には、この栄誉を受ける権利があった。彼は以前、レジオン・ドヌール勲章の騎士(シュヴァリエ)であったからだ。それ以外は、その静かな葬儀には、死者の2人の義理の娘、数人の孫、数人の旧友、そして1人のアメリカ人の友人が参列しただけであった⁽¹⁾。最後の儀式に、偉大な科学者の死を感じさせるような華やかさや仰々しさはなかった。とは言え、結局のところ、同時代の人々が彼の価値を軽視したのは、これが初めてではなかった。もう一人のアントワーヌ、性をラヴォアジエという人物は、今から1世紀以上も前に、同国人たちによって死に追いやられ、次のように評された:

「共和国に学者など必要ない!」

そして今、世間にはほとんど知られることなく、おそらく偉大な科学者ラヴォアジエよりもさらに偉大な科学者の遺体が最後の安息の地に安置された。このもう一人のアントワーヌ、姓はベシャン、この人物は発酵の謎を最初に明確に説明し、顕微鏡の分野において本格的な発見をした先駆者であったようである。

彼が亡くなった年には、『科学雑誌(Moniteur Scientifique)』の8ページにわたって,彼の科学者としての業績のリストが掲載さ れた。彼の業績のリストから、その長いキャリアの途方もない労苦を知ることができる:

  • 薬学修士。
  • 理学博士。
  • 医学博士。
  • モンペリエ医学部医化学・薬学教授。
  • ストラスブール高等薬学部フェロー兼教授(物理学、毒物学)及び同大学教授(化学)。
  • フランス帝国医学アカデミー及びパリ薬学会通信会員。
  • ヒロー農業協会会員、メーヌ・エ・ロワール県リンネ協会会員。
  • ミュルーズ工業協会のゴールド・メダリスト(アニリンの安価な製造法と、この物質から得られる多くの色の発見に対して)。
  • 歴史的業績および学術協会委員会シルバー・メダリスト(ワインの製造に関する業績に対して)。
  • 生物化学教授、及びリール医学部長。

名誉称号

  • 公教育官。
  • レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ。
  • ブラジルのバラ勲章コマンダー

彼の生涯は長かったとはいえ、一人の人間の寿命の中で驚異的な発見の数々を成し遂げたことを考えれば、信じられないほど短かったとしか思えない。生物学の基礎の歴史も、ルイ・パストゥールの業績も、この長い生涯と複雑に関係している。そこで、ここではアントワーヌ・ベシャンの生涯の概略を描いてみたい。

彼が生まれたのは、ナポレオン戦争が終結したばかりの1816年10月16日、ロレーヌ地方のバシングという街だった。そこで、父親は製粉所を経営していた。少年がまだ11歳のとき、彼の人生に転機が訪れた。母親の兄がブカレストのフランス領事を務めていたが、ベシャン家を訪れ、幼いアントワーヌの聡明さと適性に目を見張った。彼は静かな田舎にいるよりももっと良い機会を与えたいと思うようになった。アントワーヌの母親にまつわる話はあまり聞いたことがない;しかし両親が私心なく、彼のためを思って11歳という若さで彼を両親から引き離すことを許したことを知れば、彼女が利発で先見の明のある女性であったことは間違いない。彼女はおそらくショーペンハウアーの「頭脳の遺伝において、人間の母親は父親よりも重要である」という説を裏付けるような女性であっただろう!それはともかく、叔父の訪問が済むと、小さな甥は叔父と一緒に出発した。二人はナンシーからブカレストまでの長く、当時としては大変な馬車の旅を共にしたのだ。

こうして、若きアントワーヌは多くの世界を見聞し、未知の言語にも精通するようになった。それは、彼の知性を強化し、発達させるのに大いに役立った。残念なことに、親切な叔父は数年後に亡くなった。少年は一人で人生の戦いに立ち向かわなければならなくなった。

友人たちは彼を援助し、化学者の助手に就かせた。その化学者が彼に大学の授業への出席を許可すると、彼の聡明さによってあらゆる学問を容易に習得していった;1833年には、何の苦労もなく薬学の学位を取得していた。

( 若さゆえの熟達ぶりは、パストゥールとは対照的である。学生時代には、彼は平均的な生徒でしかなく、後に試験官から化学の才能は凡庸であると宣告された。)

アントワーヌはまだ20歳足らずで母国に戻った。両親を訪ねた後、ストラスブールの化学店で働き始めた。当時、ストラスブールはアルザスやロレーヌの他の地域とともにフランスの一部だった。

彼の非凡な仕事ぶりはすぐに明らかになった。余暇の大半は母国語の勉強に費やした。この勉強で、将来の講演や 著述活動に役立つ洗練された文体を身につけたのだった。 その間もストラスブールのアカデミーで大学課程を続け、ついに化学者の資格を取得した。学位取得後はアルザスのベンフィールドで独立し た。そこで、クレメンティーヌ・メルティアンと出会い、結婚した。彼女は、引退したタバコとビート砂糖の商人のお嬢さんで、有能な妻に恵まれた。科学は夫の多くの時間を奪ったため、4人の子供の教育と家事全般はほとんどベシャン夫人が担った。

結婚後間もなく、アントワーヌはストラスブールに戻り、化学者としての道を歩み始める;しかし、この仕事は彼の旺盛なエネルギーを十分に満足させるものではなかった。彼は、今度は教授の座につく準備をした。彼はすぐにその目的を達成した。短期間で理学士と文学士、医学博士の学位を取得し、薬科大学理学部の教授に任命された。そこでは一時期、同僚のパストゥールの後任を務めた。

この注目すべきライバル達は、いずれもアルザスの首都で若き情熱に満ち溢れた仕事をしていた。しかし、その頃からすでにそれぞれの手法は違っていた。パストゥールは、自分の努力を記録に残すことを決して忘れなかったようである;当時彼が夢中になっていた酒石酸やラセミ酸に関するあらゆるアイデアを、他者に打ち明けていたようである;手紙には彼の努力が詳細に記されていた;彼の貴重なパトロンであった科学者ビオを、特に彼は信頼していた;一方、彼に近づきつつある名誉と栄光が、彼の友人たちの頭から離れることを決して許さなかった。彼はシャピュイに次のように書いている。一生懸命に働いたせいで、私は、

「...よくパストゥール夫人に叱られるが、私はこう言って彼女を慰めている。私があなたを名声に導くのだよ。」⁽²⁾

当初から、アントワーヌ・ベシャンは個人的な野心にはまったく無関心だった。決して押しの強い性格ではなく、影響力のある知人を探して自分の成功を宣伝するような努力はしなかった。没我的で、自然とその神秘に集中し、その神秘が明らかになるまで決して休むことはなかった。 自己顕示欲はまったくなく、パスツールの偉業が公の財産となっている間、ベシャンは研究室に閉じこもっていた。数々の発見をすることに没頭した。それは自己顕示欲をむき出しにすることなく、ただ科学的な記録として発表していったのである。

彼がストラスブールで成し遂げた仕事は、特にフランス、そして世界全体に多大な利益をもたらした。彼の研究は、アニリンの新しい安価な製造方法の発見につながった。1854年まで、アニリンは商業目的には使えないほど高価なものであったのである。ドイツの化学者アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンは、長年にわたってイギリスで研究を続け、初期の発見から得られた結果を調査した後、ニトロベンゼンとアルコールの混合物を塩酸と亜鉛の還元作用にかけることでアニリンを製造した。ベシャンは1852年、アルコールの使用が不要であること、亜鉛は鉄粉で代用できること、酢酸でも塩酸でもよいことを示した⁽³⁾。

こうして工程を簡略化し、安価にすることで、彼は化学工業に多大な利益を与えた。アニリンのコストは、一度に1キログラム20フラン、後には15フランにまで下がった;しかも、彼の発明した技術は今日まで使われ続けている。この発明は現在もアニリン染料産業における近代的な製造方法の基礎となっている。ドイツでは、この製造方法を流用しすぎるほど流用している。ベシャンの発見を知ったリヨンのメゾン・ルナールは、ベシャンに申し入れ、彼の助けを借りた。そして、フクシン、すなわちマゼンタとその変種の安価な生産に成功した。しかし、ベシャンが受けた唯一の見返りは、10年かその数年後、ミュルーズ工業協会から金メダルを授与されたことのみであった。

また、ヒ素酸とアニリンの化合物を発見したこともあまり評価を受けなかった。この化合物はアトキシルという名で皮膚病や睡眠病の治療に使われている。

彼のもう一つの仕事は、特に多くの成果をもたらした。それは可溶性発酵物の観察に偏光度計を応用したことであった。偏光計は、1つのニコルプリズムによって1つの平面に光を偏光させる、もしく光を振動させて、もう1つのニコルプリズムによって測定する装置である。彼はこれを実験に利用した。その一般的な成果は、彼が他のどの研究者よりも早く、多くの発酵の原因物体を定義し、単離することを可能にしたことである。その結果、彼はその発酵物に初めてザイマーゼという名前を付けた。この仕事については後ほど、彼の発見とその命名法までもが、如何にして他の誰かの功績とされてきたかを明らかにすることにしたい。

ベシャンの労苦は果てしなく、その発見も数知れず、どれを取り上げるべきか迷うほどである。彼は一塩基酸とそのエーテルを研究した。そこで、リンの誘導体を用いて酸ラジカル塩化物を調製する方法を発明した。リグニンの研究にも従事している。これは、木材細胞の細胞壁の特徴的な構成成分である。彼は亜硝酸エチルのような置換有機ニトロ化合物とニトロパラフィンとの違いを明確に示した。後述するように、彼は酵母のような微生物が大気中で発生し、また大気中に分布していることを初めて証明した。そして、発酵の直接の要因は酵母やその他のカビの細胞から分泌される可溶性発酵体であると説明したのである。化学者として、顕微鏡学者として極めて明晰な彼は、博物学者であり医師でもあった。そして、次第に彼の化学的研究は、驚くべき生物学的発見へと進んでいった。

アルブミノイドの酸化による尿素の生成の説明と、後者の特異性の明瞭な実証は、精力的な研究の一つとなっていた。この研究では、細胞の「分子顆粒」が発酵を助けているという意見を導き出した。いくつかの顆粒は自律的な存在であり、生命原理であり、植物性であり、動物性であり、身体プロセスの起源であり、病気の要因であり、腐敗の原因であるーついでに言えば、彼は、細胞はバクテリアに進化することができると信じていた。

これらの結論がすべて支持されるとは限らない。がしかし、ベシャンがしてきた他にもある数多くの学説は、そのいくつかは独自に、またいくつかは盗作によって、一般に受け入れられるようになったのである。自然界の生物学的プロセスに関する彼の驚くべき構想が、さらなる発見を促進することに期待するのは、確かに妥当なことである;そして我々は、その発想の起源がどこにあるのかについて正しい認識がなされることを望んでいるのだ。

彼は、細胞はもはや(ヴィルヒョーの見解のような)生命の基本単位と見なしてはならないことを示した。それというのも、細胞は細胞内の細胞顆粒によって構築されているからである。彼は、これら同類の細胞顆粒が結合すること注目した最初の人物であったようだ。彼はこれをミクロザイマ(多形性有機体)と呼んだ。そして、その結合の結果生じる棒状の集合体は、現在では染色体と呼ばれている。 彼はミクロザイマの微細さに重きを置いた。彼の学説から、無数のミクロザイマは超微小に違いないという信念に彼が同意していたことは十分に推測できる。しかしながら、彼はあまりにも厳格な精神の持ち主であったため、まったく憶測の域を越えない事柄について、現代の軽薄な風潮に乗ってあれこれ述べることはできなかった。彼が実践的な才能を発揮したのは、クロマチンの原始的な発達の空想的な絵を描く代わりに、「分子顆粒」から細胞が実際に構築されていく過程を追跡しようとした点である。その分子顆粒はミクロソーム、もしくはミクロザイマと呼ばれる。

確かな実験的根拠に基づかずに結論を導き出すのは、彼のやり方ではなかった。

ベシャンが発酵の研究をしていたとき、ビーコン実験の一部となる研究に取り組んでいたのは、まさにその時だった。そのとき、ベシャンは医化学および薬学の教授の席を獲得したため、ストラスブールからモンペリエに呼ばれたのである。

この時期が彼の生涯で最も幸せだったように思われる。重要なポジションに就いた彼は、その職務を立派に遂行した。学生たちの前で実演をして見せ、その名声は高まった。

彼はすでに並外れた発見をしており、さらにそれを発展させていた。そして、これらの発見はフランス内外で注目されていた。その結果、彼はエストル教授と献身的な友情を結んだ。エストル教授は、モンペリエ病院で医師と外科医を兼任していた生理学者であり、組織学者でもあった。ベシャンもまた医学的な訓練を受けており、医師として開業することはなかったが、病理学的な研究は継続的に行っていた。クールティやエストルのような医師や外科医の仕事に日常的に接していた。そして、彼自身も病棟で得られる経験を最大限に活用していた。彼とエストールの理論的な研究は、彼らの親交関係によって膨大な実験を行いながら確認され、さらに発展していった。その実験では、病気において何が起きているのかが明らかにされた。二人ともラヴォアジエの実験方法の厳密さに慣れていた。そこでは、臨床と実験室での研究は並行して進め、一方が他方を確認し、立証していった。

ベシャンは、教授としての職務を決して疎かにすることなく、通常なら一生涯を費やすような極めて骨の折れる仕事を、一人で、あるいはエストル教授とともに、絶え間なく研究に打ち込んだ。

  少数の教え子たちが周囲に集まり、彼らを助けながら、2人の熱狂的な研究者たちは夜遅くまで絶え間なく作業を続けた。ベシャンが語る⁽⁴⁾ように、時折、自分たちのアイデアの素晴らしい確認と理論の優れた検証に大いに畏怖の念を抱いたという。

このような労苦は、ベシャン教授のような旺盛な健康と活力を持つ者であってこそ継続できるのだ。また、エストール教授が早逝したのは、細菌による疾病の理論が一般に普及したことに失望したせいでもあるのではないかとも言われている。未熟でありながらその病原体説が世間の注目を集めたのである。ミクロザイママス、すなわち細胞の「分子顆粒」からあらゆる組織化された物質が構築されるという偉大なミクロザイママス学説に取って代わってである。

絶え間なく働き続け、家族と離れ離れになっていたことが、ベシャンが幸せな家庭生活を営む唯一の妨げとなった。優秀な夫であり父親であったベシャンは、常に他人を思いやった。そして、彼の振る舞いは、親切であると同時に毅然としていた。彼の講義は、聞きやすい名調子と完璧な発音で聴衆を楽しませた。もちろん、明晰な論理も冴えていた;一方、社交的な立ち振る舞いは気品と格式を備えていた。中背以上の身長で、澄んだ瞳と赤らんだ顔色は、心身ともに完全に健全であったことを、あますところなく証明していた。それは、彼が長い生涯を通じて恵まれていたことを物語っている。

人相学者に言わせれば、2人のライバル、すなわちベシャンとパストゥールの容貌を比較することで、それぞれの科学的態度を知ることができる。パストゥールの最大の特徴は注意深い決断力である;ベシャンの最大の特徴は知的理想主義である。

パストゥールは商業的、つまり功利主義的な立場から科学に取り組んだ。世界に利益をもたらすと公言していたとはいえ、利己的であることに変わりはなかった。

ベシャンは芸術家的な展望を持っていた。彼は知識に飢えていた。利益とは無関係だった;自然に秘められた未踏の領域に切り込むことに情熱 を燃やしていた;外界のことは忘れていた。有力な知人に賛辞を贈ると同時に、新しいアイデアの幕開けを告げるなんてことは、彼の頭の中にはなかった。探求の中で得た知見を正確に記録し、フランス科学アカデミーに報告したが、当初は自分の観察が盗用さているという事実を無視していた。その沈黙がついに抗議に変わったとき、後に述べるように、彼の忍耐が限界に達していたことがわかるだろう。知識の一粒一粒が他者から得たものであることを正確に認識していた彼は、他人のアイデアを盗用するという行為に対して軽蔑の念を抱くしかなかった。一方、彼の旺盛な活力とエネルギーに突き動かされ、このような人々に対して妥協することなく対抗心を燃やした。彼らは、自分が蒔いた種を刈り取ることに満足せず、収穫物をゆがめて踏みにじったのである。その収穫物は、非常に豊かなものであったかもしれないないのに。

モンペリエで過ごした数年の間に、パストゥールとの間に公然の決裂が生じた。というのも、後述するように、2つの病気の原因について、パストゥールがベシャンの説明を盗用したからである。それらの病気は、当時、蚕に壊滅的な打撃を与え、フランスの絹産業を破滅に追い込んでいた。ベシャンが適切な解決策を提示するまでは、この問題に関するパストゥールの意見が誤りであったという事実から逃れることはできなかった。しかし、パストゥールの方法を非難する声は上がらなかった。パストゥールはすでに大衆の耳目を集め、帝国の庇護を受けていた。いつの時代も、影響力のある人物と剣を交えるのは難しいものだ。ベシャンにもそれが分かった。

しかし、モンペリエで彼はまだ人生の苦汁を飲み干したわけではなかった。特に、時が経つにつれて、未来への希望はまだ大きく膨らんだ。新しい助手が現れ、ベシャンの長男、ジョセフが彼の仕事を分担するようになったのだ。この若者は、その愛すべき人柄から広く人気を集めていた。若くして化学を含む科学の学位を取得し、医師の資格も取った。いつの日か父の後を継いで大学に入学することは間違いないと思われた。

しかし、フランスにとっては悲しい日が訪れた。ベシャンにとっても、彼の経歴に悲惨な変化が訪れたのである。1870年、プロイセンとの戦争が勃発したのだ。フランスは屈辱を味わった。アルザス地方とロレーヌ地方、すなわちベシャンの少年時代と青年時代の故郷がドイツに奪われた。

領土は奪われたものの、熱望が沸き起こった。まだフランスは思想の世界を支配することができると。そこで、知的な刺激を与えるために、教会が庇護する大学が各地に設立された。ローマ教会が精神活動を主導することが期待されたのである。

リールはそのような中心地のひとつであった。1874年頃、ベシャンは無償の医学部の学部長に招かれた。賢明な友人たちの中には、モンペリエを離れないように勧める者もいた;しかし、他方では、リールで仕事をしないかという熱烈な誘いが殺到した。最終的に、愛国的な動機から、彼はモンペリエ大学を去るという説得を受け入れた。そして、そこで成功した仕事という幸福な思い出を後にしたのである。フランスと科学の両方に貢献したいという彼の利他的な願いで、彼はこの変更を黙認したのである。彼は息子のジョゼフとともに北部に移り住み、息子のジョゼフはリールの毒物学教授に任命された。

リールの事務局長たちがいなければ、すべてがうまくいっていたかもしれない。 彼らはベシャンの教えやその示唆を理解できなかった。彼らは、宗教的信仰が創造の神秘を照らし出してiいるのは、実際にはランプであるという見解の斬新さに対して危惧を抱いていた。しかし、これらのことについては、まだ闇の中であった。教授が、ミクロザイマについて説明したことに、不安な聖職者たちは抗議した。ミクロザイマとは、現在ミクロソーム(、もしくはミクロザイム(発酵微生物)として知られている微小な細胞顆粒である。これらは、動物、植物にかかわらず、あらゆる形態を構成する細胞の形成物質であると教授は考えていた。

自然のプロセスに関して根底から覆す彼の構想が、啓蒙の松明としてではなく、むしろ大火事を引き起こす危険な導火線と見なされたことは悲劇的だった。ベシャンの中に、自然の方法を陳腐な定型に当てはめて得意げになるのではなく、あえて調査しようとする人物が見えるのである。

しかし、パストゥールは教会当局の咎を受けることはなかったようだ;おそらく、同じような密接な接触がなかったからというのもあるだろう。しかし、彼が世俗的な知恵を持ちながら、科学においては指導者であり、宗教においては弟子の身であることを公言していたからではないだろうか;さらに、彼は影響力のある後援を得ていたのではないだろうか?

ベシャンの深い洞察力で、彼は科学と宗教の関連性を学んだー一方は真理の探究であり、もう一方は個人の信念を貫く努力である。ベシャンの信仰は、彼の著書『ミクロザイマ(原題:Les Microzymas)』をローマの索引に載せるよう推薦するために委員会に就任することを提案した人々にも理解できないほど広範なものであった。彼の著書は、至高の源である神への賛辞で結実している。ベシャンの教えは、唯物論的な見解と真っ向から対立している。しかし、彼の反対者たちは、創造の驚異を理解することが創造主の存在を示す最良の方法であることを見抜く洞察力を持ち合わせていなかった。

些細な口論に耐えられない、他の高い知性の持ち主と同じように、ベシャンはその環境ではますます不利になっていった。周囲から間違って解釈されたり、誤解されたりすることが多くなった。ベシャンの悩みはそれだけではなかった。彼は、自身で刺激してしまったパストゥールからの嫉妬に苦しんでいた。ロンドンの国際医学会議で、パストゥールが彼を公然と攻撃したのだ。1881年のその会議には、彼ら2人がともに出席していた。外国の聴衆を前にした同胞のこのような振る舞いは、ベシャンの繊細な精神を焼き尽くした。その事が、パストゥールから受けてきた盗用に対して反論しようという気にさせたのである。彼は著書『ミクロザイマ⁽⁵⁾』の序文でこう書いている:「語るべき時が来た!」

そんな彼に、また新たな時が訪れる。リールの司教や牧師たちの偏見と迫害に約11年間耐えてきた後、彼は自分の仕事が制限されることに服従し続けることはできないと感じた。 彼に対するいかなる苦情の根拠が支持されることはなかった;彼の見解に対する唯物論的な告発は支持されることはなかったのだ;しかし、彼の仕事が妨げられ続けるよりはと、ベシャンは遺憾ながら辞表を提出することを決意した。そして、彼の息子ジョセフも父のために同じように辞表を提出するべきだと感じたのである。こうして、父と息子、リールの教育界で輝く存在であった彼らは、公式の場での経歴を断ち切られた。そして、その生涯を仕事に捧げてきた者だけが理解できる苦い思いを味わったのである。

リールに滞在していた若いベシャンは、アーブル出身のジョゼフィーヌ・ラングと結婚した。そして、この新しい縁でベシャン一家は海沿いの町に移り住み、化学者として事業を始めた。科学実験室ができたことで、2人の精力的な研究者は医学的分析が可能になり、研究を続けることができるようになった。

しかし、またしても運命の手はアントワーヌ・ベシャンに大きく作用した。彼の息子ジョセフは有能な化学者として知られ、絶えず化学分析に従事していた。この仕事のため、彼は時折海に出ることがあった。ある時、彼はひどい寒気に襲われた。二重の肺炎にかかり、数日で44年という比較的短く前途有望な生涯を閉じた。

アントワーヌ・ベシャンは、妻と4人の子供たちよりも長生きする悲しい運命にあった。 彼の意に反して、下の娘はヴェールを着るように説得され、修道院での生活の厳しさのために若くして亡くなった。長女は結婚した。1872年にモンペリエで、エドゥアール・ガッサーという男性だった。彼はレミニィにブドウ畑を所有していた。彼女は5人の子供、娘1人に息子4人を残したが、そのうちの1人は幼くしてチフスに冒された。一方、残りの3人は生きて第一次世界大戦でフランスのために尽くした。

ジョセフ・ベシャンは6人の子供、4人の娘と2人の息子を残した。そのうちの1人は若くして亡くなった。もう一人の息子は科学の趣味がなく、父の薬局と研究室を処分した。その息子は1915年に独身で亡くなった。

アントワーヌ・ベシャンの次男、ドナは1902年に亡くなった。彼は、マルグリット・ドラリュと結婚している。彼の3人の息子のうち、下の2人は第一次世界大戦で命を落とす運命にあった。長男は当時ロシア陸軍の医師だったが、ドイツ潜水艦による病院船ポルトガルの沈没事故で、辛うじて溺死を免れた。祖父の唯一の生き証人である彼は、変わらぬ天賦の才を受け継いでいると言われている。わずかな努力もなしに医学、化学、顕微鏡学の学位を取得した。そして、音楽とデッサンの資格も取った。科学と同様に芸術も彼にとって簡単なことだった。

閑話休題、アントワーヌ・ベシャンの話に戻そう。彼はアーブルで、突然、才能ある息子を失った。家族に対する愛情だけでなく、科学者としての希望も託していた息子を失ってしまったのだ。アントワーヌ・ベシャンは、中国の思想家、孟子が語るような厳しい修練を積んでいたのである。孟子はこう語っている:

「天が人にこの世での偉大な仕事を求めるとき、人は心を痛め、筋肉は疲れ果て、胃は空腹になる。そして、精神は失望する;このような経験は、全世界を愛するために心を拡大させ、他の人が道半ばで倒れるところでも戦おうとする意志を強めるからである。」

アーブルは悲しい思い出の地となった。ベシャン教授はパリに移ることを喜んだ。 ここでは、ソルボンヌ大学の研究室で生物学的研究を続けることができた。彼の古い同僚であったM.フリーデルが、寛大にも彼のために提供してくれたのである。M.フリーデルは、もう一人の旧友M.フレミーとともに、モンペリエでの偉大な研究を放棄したベシャンの愛国的な無私主義を嘆いてやまなかった。

1899年まで、つまり83歳になるまで、この偉大な老科学者は研究室での日々の研究を絶やすことは決してなかった。それ以後は、もはや実験室での仕事を続けることはできなかったが、死の数日前まで、彼はそれに劣らず熱心に働いた。そして、その長年の労苦の文学的成果を収集し、整理した。その一方で近代科学の歩みを追い続け、批判し続けた。

最後まで、彼の聡明な知性は衰えることがなかった。家父長的な威厳を保ちながら、常に新旧の学説について議論し、自らの科学的アイデアを説明する用意があった。悲しみと失意が彼から持ち前の明るさを奪っていたとはいえ、世間的な評価が得られなかったからといって悲観することはなかった。自分の業績はその後の調査をうけ、それらの検証に耐えるだろう。そして、次第に自分の教えが真実であったことが証明されるだろう。そして、来るべき数世紀に私の業績に対する評価が、自分を適切な地位に引き上げないはずはない、と彼は感じていた。富がないことについては、さらに無頓着だった。彼にとって、労働はそれ自体が報酬である。成功とは仕事の成果によって定義されるものであって、金銭的な利益の多寡によって定義されるものではなかった。そのような利益は、窃盗犯や似非科学者が、真に価値ある人物から貪り取って手にするものであることがほとんどなのだ。

そして1908年、四月のある日がやってきた。労働に疲れ果てたアントワーヌ・ベシャンはベッドから起き上がることができなくなった。 彼の信念は立証された。彼自身の言葉⁽⁶⁾を引用すると、「科学の創始者たち、モーゼから現代に至るまで人類が敬愛する最も偉大な天才たちが、神と呼んできた人物」である。

「我が信念!」というのが、彼の命が尽き果てていくときに囁かれた最後の言葉のひとつであった;彼には、信念について語る資格が十分にあった。彼は、自然の驚異と目に見えない世界の神秘を深く掘り下げてきたのだ。最後まで冷静で自信に満ち、彼の信念は揺るぎなかった。

『モニトゥール・サイエンティフィック』誌は、時が彼の発見を正当に評価するだろうと書いた。そして生ける役者が舞台から去り、その舞台で公平な判断がもたらされれば、ベシャンの天賦の才能が世に明らかになるだろうと予言した。

彼は、あらゆる自然の営みと同じように、驚異的で複雑なものを説いた。それでも、大衆の無知はその代わりに単純で粗雑なものに飛びついた。しかし、過ちは、それ自体に破滅の病巣を宿しているため、次第に崩れ落ちていく。

毒性を有する微生物による猛攻撃なんてものではなく、病気に対するより健全な解決策と、生物学的な成長と崩壊、生と死のプロセスの完全な説明が求められているのは、すでに明らかだ。

世界は誰に向かうべきなのだろうか?パストゥールの教説が正しいと唱える扇動者ではない。発酵の神秘を明らかにした真の発見者、目に見えない有機体の役割を説明した提唱者、化学者であり、博物学者であり、生物学者であり、医師であるアントワーヌ・ベシャン教授ではないか?


  1. Dr. Montague R. Leverson.
  2. The Life of Pasteur, René Vallery-Radot, p.58.
  3. Confirmed in Richter’s Organic Chemistry and in Thorpe’s Dictionary of Applied Chemistry (1921).
  4. La Théorie du Microzyma, A. Béchamp, p.123.
  5. p.8.
  6. Les Microzymas, A. Béchamp, p.926.

著者序文
著者序文
諸説紛々
諸説紛々