原 題:「Pasteur: Plagiarist, Impostor - The Germ Theory Exploded」
著 者:R.B. Pearson
出版年:1942
掲載本:「BÉCHAMP OR PASTEUR? - A LOST CHAPTER IN THE HISTORY OF BIOLOGY」(PDF)
ある病気に対する治療薬や予防薬の価値について議論する場合、過去にそのような治療薬や予防薬を使用した結果についての実際の統計は、それを判断する上で大きな価値がある。特に、長期間にわたる傾向をグラフ化することができる場合はなおさらである。
したがって、このような生物学的治療の導入前と導入後の死亡率を示したグラフが何を示すかを検討するのは適切なことだと思われる。特に、多かれ少なかれ似たような病気に対する他の治療法の一般的な傾向と比較することができればなおさらである。
このため、この章では、生物学的製剤の使用前と使用後のいくつかの病気の死亡率、および生物学的製剤を使用した場合と使用しなかった場合の類似した病気の死亡率を示したいくつかのグラフを掲載する。
これらは、すべての生物学的製剤はまったく役に立たないだけでなく、実際には非常に有害であるという我々の主張を驚くほど裏付けているもので、我々は図表を注意深く研究することを強く勧める。
これらの図表とそれに続く情報を見れば、いわゆる「病原菌説」やあらゆる生物学的製剤の使用が、ハドソン博士が言うように間違いであり、直ちに完全に放棄されるべきものであることは、最も忠実なパスツール信奉者であっても納得できるはずである。
図1
英国レスターにおける天然痘とワクチン接種
この図では、強制法などによってワクチン接種が積極的に推進されたすべての年に、天然痘が何度も何度も再発し、大抵はワクチン接種が増加した後に再発したことに注目してほしい;1872年の大流行で頂点に達した。この大流行は、予防接種拒否を刑罰の対象とする法律(1867年)のもとで、4年間かけて国民に完全に予防接種を施そうと集中的に取り組んだ末のことだった。 そして、英国最高医務官が、国民の97.5%が天然痘に罹患したか、ワクチン接種を受けたと発表した直後のことであった。
最悪の流行は、彼らが最大限の「防御」を手に入れた直後に起こったのである!また、この時以来、レスターではワクチン接種が減少している一方で、天然痘による死者も減少しており、この場合はゼロになっていることにも注目してほしい!
レスターでは過去20年間、全ての新生児のうちワクチン接種を受けたのは6%にも満たないほど、世間はワクチン接種に対する信頼を失っているが、1905年から1938年までの過去33年間の記録では、天然痘による死亡者は一人も出ていない。
予防接種を義務づけている国で、このような記録を残せる都市はおそらく世界中どこにもないだろう。
このグラフは、ワクチン接種が予防にならないだけでなく、天然痘の積極的かつ重要な発生要因であることを示している。
英国チェスターフィールドの保健担当医R.ガロウ博士は、1923年から6年の英国およびウェールズにおける15歳以上の天然痘による症例死亡率が、ワクチン接種者(0.3%)ではワクチン未接種者(0.06%)の5倍であったのはなぜか、と問いかけていることにここで触れておこう!⁽¹⁾(彼は公式の数字を使い、小数点以下1桁と2桁で計算した;小数点以下4桁で計算すると、0.324%と0.0578%となり、6倍に近く、両者の比率は5.6055対1となる。 他の年も同じような傾向があるようだが、比率は低い)。
抗毒素(抗体・血清)やワクチンに価値があるのなら、膿で治療する医師たちが長年約束してきたように、なぜその逆の比率にならないのだろうか?
英国ロンドンのThe Vaccination Inquirer誌⁽²⁾によれば、ブラジルでは厳格な強制接種法があり、最も精力的な強制接種が行われているが、1913年から1922年の10年間、リオデジャネイロにおける人口10万人当たりの天然痘による死亡率は、抵抗勢力が強く、免除法が広く適用されているロンドンの600倍以上であった!
もしこれが医師たちが主張するような「事故」に過ぎないのであれば、少なくともワクチンが役に立たないことの証明にはなる;しかし、動物の膿を使った注射がより高い死亡者数の原因であるということである、というのが私の主張である。
英国レスターにおける天然痘と予防接種
右端のグラフで示されているように、ワクチン接種が増えるたびに天然痘による死亡率が増加していることに注目してほしい。
訳者註:右端のグラフは新生児のワクチン接種率を意味しており、左端から延びる黒線のグラフは天然痘による死亡率(人工10万人当たりの死亡者数)を意味している。
図2
日本における天然痘と予防接種
日本は、おそらく過去60~80年間、どの国よりも集中的かつ徹底的な予防接種を実施してきたのだから、抗毒素やその他の生物学的製剤に起因する可能性のある悪影響は、抗毒素接種の少ない国よりも、より完全かつ明白に記録されるはずである。
生物学的製剤の効果がどのようなものであったかを知るために、統計局年報の数値から1885年以降の日本におけるいくつかの病気の死亡率をグラフにし、日本年鑑から1つか2つの欠落部分を補うとともに、各年の予防接種の接種総数をグラフにした。
予防接種が日本に導入されたのは1849年で、「国民は熱心にこれを受け入れた」と言われている。1874年に最初の予防接種法が制定され、1876年、1885年、1909年に強制接種法が制定されたが、そのたびに前の法律よりも厳しくなっていった。
さて、新生児の予防接種は生後90日以内と、2年目、10年目にも行わなければならないと聞いている。日本では1885年から1928年までの間に、1億8767万9000回以上の予防接種が行われていることから、予防接種の有害な影響はここで十分に明らかになるはずである。
1890年に動物のリンパ液が導入され、その頃から結核やその他の肺疾患による死亡率が上昇し始め、28年間ほぼ継続的に増加した。予防接種数のピーク時には、これらの疾患による死亡率がすべて上昇し、予防接種の回数が何年か減少すると、死亡率が低下する傾向があることに注意されたい。
最近のある年の年鑑には、母親たちが怠慢になった(!)ために民族が「退化」していると書かれていたが、私は、結核などによる現在の高い死亡率もさることながら、抗毒素の使用こそが「退化」の原因であるのではないかと考えている。
また、天然痘の恐怖がなく、特別な予防接種もなかった近年では、年間予防接種の総数が減少するにつれて、グラフに示したすべての病気の死亡率が確実に下降に転じていることにも注目してほしい。 このことは、われわれの主張をさらに裏付けるものである。
年鑑の編集者は1930年代初頭に亡くなっており、それ以降の数字はまとまっておらず、すべて入手できるわけでもないため、1931年に作成されたこのグラフは最新のものにはなっていない。
日本の各種の病気による死亡率。
1897年と1908年の予防接種の増加に続いて、結核、心臓病、肺炎などが増加したことに注目してほしい。
図3
学齢期のワクチンと結核
このグラフは、生物学的製剤は若者には良い影響を与えないという見解を裏付けている。生物学的製剤の強制使用のない国は、若者の結核による死亡率が最も低いのに、日本はその反対で、最も集中的な義務化と最も高い死亡率を併せ持つ。
学齢期のワクチンと結核
日本やイタリアのように予防接種が義務づけられている国の死亡率が、英国やウェールズ、ニュージーランドのように義務づけられていない国の死亡率よりもはるかに高いことに注目してほしい。
図4
ワクチンとその他の病気
最初の3つのグラフでは、生物学的製剤が天然痘を予防しなかっただけでなく、逆に天然痘を増加させ、さらに結核を大幅に増加させたことを示した。
図4では、ある病気に対してどのような生物学的投与を行っても、膿で治療する医師たちの理論を信じるならば、まったく関係がないはずの他の病気を増加させるという、驚くべき効果があることを示している。
1910年におけるニューヨーク州のさまざまな移民集団における致死率の高い疾病による死亡率
ワクチン接種が義務付けられている国(図の左側)からの移民の方が、義務付けられていない国(右側)からの移民よりも、死亡率がはるかに高いことに注目されたい。
読者は、第7章を読み、図2、図3、図4を一緒に読んで、その章で述べられていることがいかに真実であるかを理解すべきである。
図4の統計は、1910年にニューヨーク州に居住していた、上記の国からの外国生まれの移民全員を対象としている。各国籍グループには34万人から56万人が含まれており、この統計から各グループの病気に対する抵抗力を非常に高い信頼性で把握することができる。
イタリアは、前述したように1888年に強制予防接種法が制定されたが、ワクチン未接種の欄に含まれているのは、これらの移民のうち、年齢的にこの法律の適用を受けたのはごく一部であり、その全員が若すぎて、しかも予防接種を受けたばかりであったため、1910年までに悪影響が十分に発現しなかったからである(同ページで説明)。しかし、イタリア人グループの死亡率は、ブライト病を唯一の例外として、すべて同じ列の他の2カ国の死亡率を平均して上回っていることに注意されたい。
また、結核では、イタリアを除くすべてのグループで、軍隊でかなりの頻度でワクチン接種を受けたと思われる男性の死亡率が、(看護師を除いて)ワクチン接種を頻繁に受けたと思われる人がほとんどいない女性の死亡率よりもはるかに高い。この数字が示しているすべての違いについて、ワクチン接種以外のもっともらしい説明はあるのだろうか?
図5
米国登録地域における重要疾患による死亡率
図4で見たように、血清は他の病気を増加させるようなので、米国における一般的な傾向を見つけるためにこのグラフを作成した。
心臓病の増加に注目し、第7章(53-54頁)で述べたこと、および図4と図6と比較してみよう。がんと腎炎も、それほど顕著ではないが、同じような傾向があるように思われる。
米国における重要な病気による死亡率
生物学的製剤によって悪化する癌や心臓病による死亡率が増加する一方で、その他の死亡率が減少していることに注目してほしい。
図6
英国およびウェールズにおけるジフテリア、猩紅熱および クループ(喉頭炎)
抗毒素が使用されなかった1871年以降、猩紅熱とクループは死亡率が大幅に低下したが、ジフテリアは大幅に増加した。実際、抗毒素が最も強力に推し進められた1893年から約7年間、本物の蔓延があった! そして、1921年から29年にかけての死亡率は、依然として50年前の死亡率を平均して上回っている!
つまり、ジフテリアと闘うための抗毒素の「助け」によって、1871年から89年にかけて死亡率が上昇しているのに対して、猩紅熱とクループは、抗毒素の助けなしに、それぞれ96%と99.8%という驚くべき死亡率の低下を示しているのである。
抗毒素が英国に導入されたのは1894年という公式発表があるが、このような猛毒の生物学的製剤が、何の予備知識も経験もなしに全国規模で導入され、義務化されるとは到底思えない。このため、少なくとも1893年、あるいはそれ以前に英国の一部で実験的に試され、こうしてその年に始まった伝染病が、接種免除法によって使用者が減るまで流行し続けたのではないかと私は考えている。
1901年の英国バーミンガム市の保健担当官の報告書には、次のような数字が記されている:
バーミンガムにおけるジフテリア、1890-1901年
1901年、バーミンガム保健担当官の報告より。
抗毒素がいつ導入されたのかについての記述はないが、1895年に死亡率が上昇したことから、この年に導入されたものと思われる。保健担当官はおそらく、抗毒素が導入された時期に突然死亡率が上昇したのは、単なる偶然の一致であり、"あまりにひどい "ので、注意を喚起しない方がよいと考えたのだろう。
明らかに、彼は抗毒素を信じていた;1897年にワクチン接種がピークを過ぎたとき、ジフテリアの症例による死亡率は、1月から6月(学校が休みになる)までは平均25%であったが、7月から12月まではわずか20%であった。 この20%の低下は、「抗毒素の無償配布が1897年6月に開始された」ためであるとしている。 彼は、学校の子供たちが休暇中で、学校での予防接種プログラムが中断されていたことが関係しているかもしれないとは認めている。
英国およびウェールズにおけるジフテリア、猩紅熱およびクループ
ジフテリアの死亡率は、1893年に抗毒素が導入されて以来、1871年から80年の死亡率を大きく上回っているが、猩紅熱とクループの死亡率は、生物学的製剤を使用することなく、一貫して急速に低下している。
図7
英国レスターのジフテリアと抗毒素
英国でジフテリアの流行が始まったのは1893年だが、1895年まではバーミンガムやレスターに及んでおらず、レスターに抗毒素が導入されたのは1895年であったことが記録に残っている。
抗毒素が導入された後のジフテリアの激増と、それに対応して接種免除法が適用された時の減少が5年間ではわからなかったので、これらの10年間を個別にグラフにした。集団の数値はすべての症例で年間の平均値であり、したがって蔓延期の数値と比較可能である。
ここでもジフテリアの死亡率は、抗毒素が導入される前の60年間を上回っている。また、この流行の曲線が、膿疱摘出者の活動にどのように対応しているかに注目してほしい。その上昇と下降は、おそらく、この数値を知る『医師』たちが公表していない数多くの地域での、抗毒素の本来の効果を示しているのだろう。そしてそれはまだ続いている。
1935年、レスター市の保健担当官であったC.ミラード博士は、市議会保健委員会にジフテリア予防接種に関する報告書を提出した⁽³⁾が、その中で「一般市民への予防接種を奨励するいかなる行動」にも反対するよう勧告した。
彼は、バーミンガムや他の町で多数の予防接種後に死亡率が上昇したことを指摘し、「ジフテリアの多くは病原体保有者によって蔓延している」とし、予防接種が「病原体保有者の数を確実に増やしている」との見解を示している。
彼はまた、医学研究評議会の報告書⁽⁴⁾を引用し、予防接種が多くの症例で死亡率を増加させるようだ、という趣旨のことを述べた。
この報告書によると、1929年までの総人口に対する大規模なジフテリアの罹患率において、統計からは接種によって改善されたという証拠は得られなかった。それには以下のように書かれている:
「ヨーロッパで最も予防接種を行ったフランスでは、ジフテリアの発生数は1924年から1930年まで着実に増加し続けた。クラスター(1931)は、1921年にニューアークでジフテリア撲滅キャンペーンが開始されたが、それは学校に限定されたものであったと述べている。当初は成果を上げているように見えたが、1926年には罹患率と致死率が上昇し始め、1929年にニューアークにおけるジフテリア死亡率がその年の米国で最も高いことが報告された。 この病気の矢面に立たされたのは、予防接種を受けていない子供たちであった。クラスターは言う:
『私は、これは家庭における予防接種グループの一般的な病原体保有者の状態から起こったと確信しています。』」 (p.105)
英国レスターにおけるジフテリア-症例と死亡。
1895年に抗毒素が導入された後、死亡率が急上昇し、それまでの57年間は年平均62人であったのが、1900年には最高で1514人が死亡した。
就学前の子どもたちが高い頻度で死亡しているのに、予防接種を受けた就学児がまったく問題なく過ごしているという『確信』は、私にはうさん臭く聞こえる。 見当違いの確信だと思う。医師が病原体説を疑うのは無理があるように思える。
ミラード博士は、カンザス州の症例における致死率が1920年の4.9%から1929年には7.3%に増加したことに触れ、次のように述べている。
「キナマン(州の疫学者)は、積極的な予防接種がジフテリア菌の毒性を高めると考えている。」
そして、その報告書を次のように引用している:
「免疫を持っている子供は、より毒性の強いタイプの微生物を非免疫の子供に移し、その結果、ジフテリアに感染した非免疫の子供の致死率は年々増加している」。
彼はまた、デトロイトが1921年にキャンペーンを開始し、年間3,000人の接種を4年間続けたという報告書も引用している。1925年には年間18,000人に、1926年には100,000人に増加した。 この年には、次のようなことがあった:
「ジフテリアの罹患率と死亡率が急上昇した。1930年までの5年間で、多くの予防接種を行ったデトロイトのジフテリアによる平均死亡率は、アメリカのどの都市よりも高かった。
ミラード博士はまた、1929年のジフテリアによる死亡率は人口10万人当たり16.0人で、予防接種を行わなかったレスターの過去5年間(1930-34年)の平均4.1人の4倍近くであったことを指摘した。
これは、J.W.ブラウン博士が結核について『燃えさしをかき回し、火をつける』と表現したことによく似ている。
これらの増加について、他の推論で説明できないだろうか?カリフォルニア州衛生局伝染病局長のW.ケロッグ博士は、この検査を全面的にやめるべきだと言う。 彼はこう付け加える:
「タンパク質に過敏な人の反応を読み取る際のエラーの割合は、最も経験豊富な人の手であっても、しばしば50%にも達する。」
50 %間違う検査に何の意味があるのか?
J.キルパトリック博士は、1928年12月4日、シカゴ・ホメオパシー医学協会で次のように述べた:
「舌がきれいで息がきれいな人で、ジフテリアに暴露さ れて感染するような人は見たことがない。」
図8
米国のある都市におけるジフテリアと抗毒素
1926年1月1日、A.M.A.(全米医師会)主義者たちは、1930年までにジフテリアを撲滅するため、全国の就学する子どもたちにトキシン・アンチトキシン(T.A.T.:免疫を与える毒素と抗毒素の混合物)を注射する活動を開始した。もちろん、膿の販売を推し進めるため、大規模な保健部門と多くの校医や看護師を擁する大都市から始めた。この数値は、ジフテリアが撲滅されたことを示すものではないし、その可能性もない!それどころか、ほとんどの大都市では、1925年以降の数年間、おそらく平均して1925年の数値を100%以上上回る増加が見られた。
米国の市立学校における死亡者数と毒素/抗毒素の使用状況
死亡率は1925年まで低下し続けていたが、1926年から1927年にかけてすべての症例で急上昇したのは、抗毒素の販売促進が始まってからである点に注目されたい!
このグラフは、推進活動が特に顕著であった一部の都市を含んでいるにすぎず、T.A.T.が何らかの有益な効果を発揮していたのであれば、ジフテリアの顕著な減少が起こっていたはずである。
しかし、1930年は過ぎ去り、ジフテリアは撲滅されるどころか、T.A.T.が最も推し進められた最悪の事態となった!
1915年から1924年までの数値は米国国勢調査局の死亡統計の1924年版から、1925年から1928年までの数値はそれ以降の巻の死亡総数に基づいている。人口は、1920年と1930年の数値から、1930年以前の各年について、後者の数値との差の10分の1を引くことによって推定した。 また、これは厳密には正確ではないので、死亡率を算出する際に通常行われる7月1日現在の人口への調整は行わなかった。デトロイトの1923年の数値は、表から省いたのと同じ方法で推定した。
1929年と1930年の数値は、シカゴ保健局の1925-30年版報告書の表から同じ方法で推計したものである。したがって、これらの年の数値は正確ではないが、それでも本当の数値にそれなりに近いはずである。 1929 年と1930 年のヤングタウンの数値は、ペンシルベニア州ピッツバーグのJ. フラッド氏から提供されたものである。
このグラフは、1915年から1925年または1926年まで非常に大幅な下降傾向を示しており、この年に大きな推進活動が始まり、その後2年間は急激な上昇が見られ、T.A.T.が最も広く使用された1927年から29年にわたってその傾向が続いていることに注目してほしい。
1930年の減少が、推進活動の休止によるものなのか、大衆の食べる量が減少するような厳しい時代によるものなのか、つまり戦時中のオランダのように平均的な健康状態が改善されたことによるものなのか、あるいは血清の使用量が減少したことによるものなのかはわからない。 しかし、私はこの減少が抗毒素のせいだとは思わないし、抗毒素やその他の生物学的製剤が何らかの効果をもたらすとも思わない。
このグラフは1931年に作成されたもので、最近、このグラフに追加しようとしたところ、これらの都市に関するこの年以降の数値を見つけることができなかった;おそらく、アロパシーの医師達はこれらの数値を流通させないようにしているのだろう。
真の治療法
抗毒素が発見される前の1879年、バトルクリークのJ.ケロッグ博士はジフテリアに関する本を著し た。その中で彼は、当時多くの場所で起こっていた40%から75%という死亡率を嘆き、400例以上の治療で死亡例がなかったと主張する病因を取り除く治療法を推奨した。
シカゴをはじめとする多くの都市の症例における死亡率は、近年では8%から10%であることから、ケロッグ博士の方法は、いかなる生物学的製剤よりも大きな改善となるように思われる。
ここで提示した証拠を見れば、病気を治すために動物の膿を使うことが、人類史上最大の失敗のひとつであることに誰もが納得するはずだ。
脚注