原 題:「Béchamp or Pasteur? - A Lost Chapter in the History of Biology」
著 者:Ethel Douglas Hume
出版年:1923
掲載本:「BÉCHAMP OR PASTEUR? - A LOST CHAPTER IN THE HISTORY OF BIOLOGY」(PDF)
ルイ・パストゥール、皮革職人の息子が、1822年にドールで生まれる。強烈な意志の強さ、鋭敏な世俗的知恵、衰えぬ野心が、彼の性格の顕著な特徴であった。
彼は結晶学との関連で初めて注目された。酒石酸塩の結晶形が半面体であることを発見したのだ。彼の義理の息子は、初期の業績に対する彼の歓喜の様子を記録していた。その記録には、彼が実験から離れて研究室を飛び出した様子が書かれている。彼は飛び出した後、偶然居合わせた博物館館長の首にぶつかった。そして、その場で驚いていた館長を ルクセンブルクの庭園へと引っ張って行って、自分の発見を説明したのである⁽1⁾。
このように大々的に宣伝された仕事は話題となった。やがてそのニュースはM.ビオの耳にも届いた。この知らせを聞いたパストゥールは、この有名な科学者との面会を求める手紙を書いた。彼はそれまで面識はなかった。この時ばかりと、やや人間嫌いの年老いた研究者に高い評価を受けるためにあらゆる配慮を惜しまなかった。こうして、影響力のある後援をその研究者から得たことが、野心的な若い化学者の栄光の経歴における最初の要因となったことは間違いないだろう。
それでも、ビオの説得が実らず、パストゥールは科学アカデミーの会員になることはできなかった。彼が会員の資格を獲得したのは、ビオの死後である。鉱物学部門から推薦されたのであった;奇妙なことに、その時、結晶学に関する彼の初期の結論には、すぐに例外があることが指摘され始めたのである⁽²⁾。
しかし、それは1862年末になってからのことだった。
一方、1854年、パストゥールはリールの新しい理学部の教授兼学部長に任命された。1856年、地元のビートの根から作るアルコール製造業者から助言を求められたことをきっかけに、彼は発酵の問題に目を向けるようになった。当時学者たちは、発酵に関心を寄せていたのである。科学アカデミーの会員に選ばれるための票を集めるためにパリに行くことになったので、彼はその研究を中断した。わずか16票しか得られず、アカデミーの選抜メンバーに入る試みは完全に失敗に終わった。パスツールはリールに戻って、発酵の研究に取り組んだ。
カニャール・ド・ラトゥールやシュワン、その他の研究者たちによる研究が行われていたにもかかわらず、動物や 植物の物質が自発的に変質することができるという考え方が広まっていた。一方、ドイツの有名な化学者リービッヒの権威が、影響力をもっていた。酵母は空気に触れている水の中で変質を進めていく能力によって、発酵を引き起こすと主張したのである⁽³⁾。 ルーダースドルフという名のもう一人のドイツ人は、ベシャンが主張していたように⁽⁴⁾、酵母が糖分を発酵させることを証明する実験を行っていた。そのような現象が起こるのは、酵母が生きていて組織化されているからであると主張した。1856年に出版された『有機化学辞典(原題:Trait de Chimie Organique)』の第4巻にその説明が掲載されている。
さて、その翌年にパストゥールがこの問題に対してどんな貢献を果たしたかを検討することにしよう。この時期、一般的な学問領域から、発酵に関する完全な説明を彼が求められていたからである。
1857年、パストゥールはパリのエコール・ノルマルで研究するためにリールを去った;しかし、ここではパストゥールの動向についてではなく、純粋に発酵という課題に関して彼が何を明らかにしたかに注目したい。
彼の義理の息子によれば⁽⁵⁾、1857年8月、特に酸乳の実験を行った後、パストゥールが初めてリール科学協会に乳酸発酵に関する論文を提出した。それはともかく、この問題に関する回顧録からの一節から、その内容が読み取れる。その回顧録は、1857年11月30日付の『フランス科学アカデミー紀要(Comptes Rendus of the French Academy of Science)』⁽⁶⁾に掲載されている。この回顧録のフルテキストは1858年4月に『化学及び物理学年報(Annales de Chimie et de Physique)』⁽⁷⁾に掲載されている。詳細はそちらを参照されたい。
パストゥールが行ったこの実験は、通常の発酵で生成した物質を用いていた。そこでは、砂糖、石灰、カゼインまたはフィブリンで以て栄養を与え発酵させていた。また、グルテン(穀類に含まれる有機物)を用い、酵母エキス(アルブミノイドとミネラルの複合溶液)の中に入れて発酵させた。その酵母エキスの中に砂糖を少し溶かし、石灰を少し加えていた。
ベシャンが指摘するように⁽⁸⁾、この実験に目新しいものは何もなかった;リービッヒが16、17年前に行ったのと同じ実験だった。しかし、リービッヒとは異なり、彼は顕微鏡による観察を無視しなかった。そのため、ドイツの化学者が見逃していたことを観察することができたのである。パストゥールは、乳酸発酵体を顕微鏡で観測できた。その発酵体は、小さな球のような形をしていた。疑う由もなくそれが酵母に似ていることから、「乳酸酵母」と名付けた。しかし、このケースでは、小さな球がはるかに小さいのである。つまり彼は、今日において乳酸発酵の原因として知られている微細な有機体を見たのである。
さて、この現象に関する彼が発した注目すべき説明に移ろう。彼は、乳酸発酵を準備するために、乳酸発酵体を導入する必要はないと言う。つまり、
「乳酸発酵体は自然発生的に誕生する。有利な条件が整えば、いつでもビール酵母のように簡単に誕生するのである。」⁽⁹⁾
この主張は、ビール酵母と、彼が「乳酸酵母」と名付けた酵母が自然発生するということをパストゥールが信じていたことを示している。彼の説では、「有利な条件」が何であるかはまだわからない。彼はしばらくしてから、こう語っている:
「この乳酸酵母の球体は、(ビール)酵母の可溶性部分から供給されるアルブミノイドの液体の中で自然に発生する。」⁽¹⁰⁾
確かに、自然発生に関する一般的な見解を覆すものは、この説明には何もない。しかし、公平を期すために、彼の回顧録のフルテキストに加えた注釈を見逃すわけにはいかない。それは、『化学及び物理学年報(the Annales de Chimie et de Physiquea)』⁽¹¹⁾に掲載され ている。この記事が1858年4月に掲載される前に、ベシャン教授は、フランス科学アカデミーに対して、発酵の起源に関する啓発的な説明を発表していた。ベシャン教授の反論の余地のない見解を前にして、パストゥールは、この回顧録に但し書きを加えるのが賢明だと考えたのかもしれない。この回顧録は最初から最後まで、自然発生的なものに関して説明する以外、カビの発生について何ら回答を与えていないのである。
だから、「それ(乳酸酵母)はビール酵母と同じように簡単に自然発生する」という文章には星印が付けられていて、その下を見ると脚注があることが分かる。そこには、彼が「自然発生」という言葉を「事実の表現」として使っていると書いてある。しかし、自然発生⁽¹²⁾の問題は保留している、とも書かれている。確かに、この回顧録からは自然発生を否定するものは完全に除外されている。そして、彼はビール酵母と「乳酸酵母」の自然発生を断言している。
パストゥールが他の自然発生論者と異なっていたのは、このような驚異的な現象を説明しようとしなかったことである。
パストゥールの信奉者たちは、彼の見解が混乱していることを無視して、これと同じ回顧録の結論の文章を、彼の学説の正しさを証明する勝利の言葉として取り上げている。なぜなら、彼はこう述べているからである:
「発酵は、生命や、球体の組織化と相関関係にあるように見えるが、これらの球体の死や腐敗とは相関関係にないように見える;さらに、それは接触の現象として現れるのではない。」⁽¹³⁾
しかしこれは、他の研究者が言っていたことにすぎず、彼より何年も前に証明されていたことでもある。つまり、彼は証明が欠けていたのである。彼は自身の仮説に関して次のように認めざるを得なかったのである。「新しい酵母は組織化されており、生きている存在である」と。要するに:
「もし誰かが、これらの結論において私が事実を超えていると言うのであれば、私はその通りだと答える。それは、正しく言えば、この件に関して反論の余地のない証明はできないという見解の道理⁽¹⁴⁾に、私は率直に賛同しているという意味である。」
従って、パストゥール自身の言葉で、この問題について彼が理解していなかったことを告白しているのである。この問題は、ベシャン教授の実験によって、すでに、後述するように、反論の余地のない実証によって解明されていたのである。 パストゥール自身が証明できなかったと認めていたにも関わらず、それを彼が証明しているという信用を得ようとしていた。どうやら、発酵現象はパストゥールにとって不可解であったようだが、それと同じように、彼が信用を得ようとしていた理由は、歴史的正確さにこだわる人にとって、かなり不可解なことであった。
しかし、彼の仕事に関する徹底的な検証を否定するつもりはない。そこで、彼のアルコール発酵に関する回顧録について検討してみよう。彼の義理の息子であるM.ヴァレリー=ラドーは、パストゥールが次のように述べたと語っている⁽¹⁵⁾:
「これらの研究成果(乳酸発酵とアルコール発酵に関する)は、同じ線上に置かれるべきである。それは、互いに説明し合い、補完し合うものだからである。」
1857年12月21日のフランス科学アカデミーの報告書の中に、今注目している回顧録から著者が抜粋した記事が掲載されている⁽¹⁶⁾。
パストゥールのこの実験の手順は次のようなものであった:彼は水で洗った新鮮な酵母を同量にして、2つに分けた。一方を純粋な加糖水で発酵させるために放置した;もう一方を多量の水で煮沸して可溶性部分のすべてをそこから抽出し、球状体を取り除くために濾過した。その後、清澄な酒に最初の発酵に使用したのと同量の砂糖を加えて、次に新鮮な酵母を微量加えた。
結論は次のようなものだった:
「ビール酵母において、主要な役割を果たすのは球状体ではないことを証明したところである。球状体ではなく、その可溶性部分の球状体への転化である;なぜなら、形成される球状体を除去しても、糖に対する効果の総体は感覚的に変わらないことを証明したからである。つまり、可溶性部分を分離する濾過によって球状体を除去しても、もしくは100度の温度で球状体を死滅させ、この可溶性部分と混合したままにしておいても、確かにほとんど問題にはならないからである。」⁽¹⁷⁾
酵母は組織化され、生きているという仮説について論じているはずだという事実からみて、彼が必然的に受けるはずの批判に対応することを考えて立ち止まってしまうほど、この結論はあまりにも奇怪なものを含んでいる。
「しかし、100度に加熱された酵母を使用して、どうやって糖の発酵が起こるのだろうか、という疑問が湧くだろう。仮に、それが球状体の可溶性部分の組織化によるもので、これらが100度の温度によって不活性化されたのであれば、不可解である。それなら、ブドウやサトウキビの果汁など、自然に糖分を含んだ液体で起きているように、(訳者追加:酵母が存在しない状態でも)発酵は起こるはずだ...」。
ここには、自然発生的な変化という一般的な考え方が見られるが、パストゥールはさらにこう述べている。
「あらゆる場合において、たとえ外見上、発酵現象における組織化の影響を信じることから我々を遠ざけるようとしそうなものであっても、それらを特徴づける化学的作用は、常に球状体の形成と相関関係にある。」
彼の最終結論は賞賛に値する:
「糖をアルコールと炭酸に分解する現象は、生命現象、すなわち球状体の組織化に関連する作用である。そして、その組織化において、糖は球状体物質の構成要素の一部を提供することによって直接的な一端を担っている。」
しかし、このプロセスを理解するどころか、3年後の1860年に、パストゥールは次のように認めている:
「さて、この化学的な分解作用、つまり糖の転化とは何からなるのだろうか?その原因は何なのか?正直なところ、私はまったくわからない。」
いずれにせよ、批判的精神はすぐにこう問う:死滅した有機体の働きによって、発酵が生命活動であるとどうやって説明できるのか;あるいは、可溶性部分の球状への転化によって-それが何を意味するかはともかく-、どうやってそう説明できるのか?また、自然発生的な変化によってどうやって説明できるのか?ベシャンのコメント⁽¹⁸⁾も頷ける:
「パストゥールの実験はあまりに行き当たりばったりなのだ。カニャール・ド・ラトゥールとともに酵母の組織化と生命の事実を認めた彼は、その可溶性部分を研究するために、この生きている存在を煮たほどでたらめなのである!」
実際、リービッヒとパスツールの密接に結びついている仕事に関するベシャンの解説は、『医学の大問題(原題:Les Grands Problémes Médicaux)』の56-65頁に掲載されており、一見の価値がある。
特筆すべき点は、パストゥールがこれらの実験に使用したものが、酵母エキスなどの生命を持つ物質であったため、いずれにせよ、問題となっている主要な疑問に対する証拠にはなり得なかったということである;すなわち、生命が純粋に化学的な媒体の中で発生し得るかどうかという疑問である。1857年、パストゥールはこの問題に決して触れることはなかった。1857年にパストゥールが行った発酵についての説明だけであれば、私たちはこの発酵という現象について奇妙な考えを持つに違いない。アルコール発酵、乳酸発酵、その他の発酵が自然発生的に起こると信じることになるはずである。 発酵が生命活動であるにもかかわらず、死滅した有機体によって行われることを理解するのに戸惑うだろう。発酵体の空気伝搬による起源については、パストゥールに関する限り、我々はその結論に至ることはないはずだ。空気伝播に関して彼は知らなかったか、そうでなければ、他の研究者、特にドイツ人のシュヴァンがすでに提唱していた事実を無視していたのだろう。パストゥールは、彼の実験に関与していた空気との接触については、ほとんど触れずにやり過ごした。なぜなら、彼の目的は、酵母エキスの変質は空気による酸化が原因であるというリービッヒの説を否定することであるからで、空気が重要な役割を果たす可能性については全く考えていなかったようである。とはいえ、リービッヒが想像した理由とはまったく異なるものであったと思われる。
明らかに、1857年当時、パストゥールは自然発生論者であった。しかし、この論争に光を当てることはなかった。牛乳が酸っぱくなることに困惑していた主婦が、パストゥールから学んだのは、生きている球状体が自然発生的に出現したということだけであった;何年も前に、傷んだ食肉に見られるウジ虫を説明するために一般に受け入れられていた説明と同じであった-イタリア人のフランチェスコ・レディがハエを接触させないようにすることを思いつく以前の説明である。
ここで読者は、パストゥールの見通しはまだ不明瞭ではあったが、謎に包まれた霧を徐々に突き破っていったと解釈するだろう。しかし実際には、その霧は、この頃にはすっかり別の方面に散っていた: ベシャンの「ビーコン実験」が、すでにこの難問に多くの光を当てていたのである。
1855年と1857年にフランス科学アカデミーに提出されたそれぞれの回顧録は、未来の科学の指針となるものであった。それから1世紀近くが経った今、その回顧録について正当な評価がなされるべき時が来たようである。
そしてここで、ある人物が、静かな研究室で行った仕事の成果に目を向けてみよう。おそらく世界にとって不運なことに、この人物は政治や広告の術に長けていたわけではなく、発見することにあまりに没頭していたため、当時はその発見に対する所有権について関心がなかったのである。
もう一度、フランスの古い文献を開いて、アントワーヌ・ベシャン教授が発酵の課題について何を語っていたかを自分の目で確認してみたい。