ベシャンか?パストゥールか?

第2部

ベシャンか?パストゥールか?

-生物学史における失われた一章

 

Béchamp or Pasteur? ― A Lost Chapter in the History of Biology


原 題:「Béchamp or Pasteur? - A Lost Chapter in the History of Biology」

著 者:Ethel Douglas Hume

出版年:1923

掲載本:「BÉCHAMP OR PASTEUR? - A LOST CHAPTER IN THE HISTORY OF BIOLOGY」(PDF)

 



第1章 発酵の謎

The Mystery of Fermentation

7.対立する理論と研究者

7. Rival Theories and Workers

間違いなく、パストゥールの成功の主な要因のひとつは、熱意である。その熱意で以て、彼があらゆる科学的問題の最前線に立っていた。そして、大衆の関心を自分自身に集中させていたのである。 ベシャンが古くからの問題を明快に説明したのは、時期的にちょうど都合が良かった。それは当時、プーシェ(Pouchet )が自然発生に関する論争を再び一般大衆の関心の的へともたらした瞬間であった。パストゥールはこの機会を捉えて論争に参加した。ベシャンが評していたように、プーシェの観察はパストゥールのそれと同様に正確さに欠けるものであった。そのため、パストゥールが勝利者として登場するのは難しくなく、純粋に科学者の世界に強い印象を与えたのである。

こうして、酵母やあらゆる種類の微小有機体(micro-organisms)の自然発生の起源(spontaneous origin)を説いていたパストゥールは、今度は空気中の芽胞(germs)について熱狂的に語り始めた。そして、生命が大気中の有機体と同義であると考え始めた。彼の新しい見解によれば、発酵は空気中を起源とする既存の芽胞(germs)によって引き起こされるだけでなく、それぞれの芽胞が特異的で明確な形の発酵を引き起こすと考えていた。

ここで彼はベシャンの誤りにはまった。ベシャンの生理学的説明によれば、それぞれの微小有機体(micro-organism)は、それが存在する媒体にしたがって発酵効果を変化させることができる;現代の研究者たちが発見しているように、形さえも変化させることができる。

しかしパストゥールは、有機体それぞれに明確で不変の機能を分類していった。1861年、彼は特殊な酪酸ビブリオ(butyric vibrio)を発見したと主張した。そのビブリオは空気がない状態でしか生きられないと考えた。彼は生きている存在(living beings)を2つの分類に分けた。すなわち、好気性と嫌気性、つまり空気を必要とする存在と空気なしで繁殖する存在である。彼は発酵を酸素を必要としない生命と定義した。

彼自身はすべての科学者の最終的な判断を時間が評決してくれると考えているのだが、その評決はほとんど彼を支持するものではなかった。例えば、ジュリアン・レベット・ベイカー(Julian Levett Baker) が執筆した記事「発酵(Fermentation)」における彼の称賛者の一人の言葉を引用したい。この記事は『ブリタニカ百科事典(Encyclopaedia Britannica)』⁽¹⁾に掲載されている。そこには、次のように書かれている:

「パストゥールによれば...❝発酵とは空気を必要としない生命、すなわち酸素を必要としない生命(fermentation is life without air, or life without oxygen)❞である。 この 発酵に関する学説は、1892年と1894年にA.J.ブラウン(A. J. Brown)によって大幅に修正された。彼はパストゥールの金言に反する実験を行った。」

パストゥール自身、M.トレキュル(M. Trécul)やトリノ委員会(炭疽菌に対する彼の予防法を調査した)との論争の中で、嫌気性生物(anaerobics)は、発酵体(ferments)になることなく徐々に空気のある状態で生きるようになることを認めざるを得なくなった。更に、好気性生物(aerobics)は発酵体になることができることも認めるしかなかった。こうして彼は、彼自ら行った分類を彼自身で壊したのである。しかし、この論理破綻した記述は、後にパストゥールが同様に論理破綻した主張をすることになるための主要な土台であった。その主張は、発酵が栄養摂取と消化吸収の現象であると考えた最初の人物は、パストゥールであるというものであった。彼が1872年に発表した声明の中や、彼の著作『ビールの研究(Études sur la Biere)』の中で彼は繰り返し述べている。そこには、これに全く反する見解が示されている:

「発酵という化学現象が他の多くの活動(acts)や、特に通常の生命の活動と異なるのは、発酵体(ferment)の重量よりもはるかに重い発酵物質(fermentative matter)の重量が分解されるという事実である。」⁽²⁾

「通常の生命」のより必然的な活動が、栄養摂取と消化吸収以外にあるだろうか?この有名な化学者は、こうして発酵現象を栄養摂取と消化吸収から切り離したのである。パストゥールはここで、生理学の奇妙な考えを流用したに過ぎない。それは1865年、彼の信奉者であったデュクロー(Duclaux)によってすでに語られていた:

「アルコール発酵において、ある重量の砂糖が、100分の1、いや1000分の1の重さの酵母によってアルコールに変化するのを見るとき、この砂糖がいつの間にか酵母の体の一部となるということは信じがたい。しかも、それ(アルコール)は排泄物のようなものであるとは考えられない。」⁽³⁾

科学者たちがベシャン教授に次のような単純な生理学的説明を求めたのは奇妙に思える:

「仮にある成人男性が1世紀を生き、平均して体重が60キログラムだったとする:彼はその間に、他の食べ物のほかに、2万キログラム相当の肉を消費し、約800キログラムの尿を排出したとしよう。この肉と尿の塊が、彼の人生のどの瞬間にも、彼の存在の一部を形成していた可能性を認めることはできない、と言えるであろうか?

ただ単に、その男が同じ行為を何度も何度も繰り返して、すべての食べ物を消費したように、酵母細胞(yeast cell)は大量の砂糖を、ただ絶え間なく消化と異化を少しずつ少しずつ行って消費しているのである。

今、たった一人の男が1世紀に消費する食べ物を、かなりの数の男が1日で吸収し、処理する。酵母についても同様である;少数の細胞が1年で消費できる砂糖を、より多くの細胞が1日でなくしてしまう。 どちらの場合も、個体数が多ければ多いほど、消費は急速に進む。」⁽⁴⁾

このような説明の必要性から、パストゥールが、発酵が吸収と排泄の生理的過程によるものであることを理解できなかったことの証左となる。この批判を立証するさまざまな例を追っていくには時間がかかりすぎるし、当然のことながら、難しい科学的に複雑な話は一般大衆の理解を超えていた。一般大衆の大部分は、自分の体に入る食べ物がどのような過程を経るのかを知らなかった。大衆が、顕微鏡を通さなければ見えない有機体の栄養学的機能を理解することは、なおさらできなかったのである。

科学アカデミーの学術報告書の中に、モンペリエで研究した教授による論文がある。その論文で、発酵という名の複雑な化学変化の理由や原因を明確にベシャンが説明していた。しかし、そんな事は、パストゥールらにとっては何でもないことだった。しかしそれとは反対に、多かれ少なかれ、誰もがこの話題を耳にしたことがあった。その話題は公然と広く議論されていた。生命が、より小さな形状であっても、必ず先行する生命から生まれるのか、それとも化学的な合成によって、親とは無関係に生命を作り出すことができるのか、という論争である。

大衆もまた、パストゥールがその疑問を追究するために休暇を利用して行った実験旅行の記録を追うことができた。埃っぽい道端やアルプスの山頂で封印を解いたフラスコの意味を理解させるのに、脚色して説明する必要はほとんどなかった。目に見える埃が液体を濁らせるのだから、空中に浮遊する目に見えない芽胞(germs)が、科学者の用意するアンプル(phials)の中身に影響を与える可能性があることは容易に理解できた。大気中に浮遊する微小な生き物(living things)は想像に難くなかった。パストゥールが熱弁をふるったので、彼が最初にそれを実証したという印象が植えつけられたのは驚くべきことではなかった;特に、多くの科学者たちが彼の見解を支持することを頑なに拒んだので、彼が自然発生説論者たちと戦う闘士のように見えたのである。彼はその直前に自然発生説を切り捨てていた。

この間、影響力のあるビオ(Biot)が後援していたにもかかわらず、パストゥールはアカデミーの選ばれし研究者達の輪の外にいた。しかし1862年末、先に述べたように、ついに彼は鉱物学部門から推薦された。彼の立候補が開始されるやいなや、結晶学に関する彼の初期の結論に異論が唱えられ始めた。それでも60票中36票を獲得し、彼は科学アカデミーの念願の地位を確保した;そして結晶学をやめるよう助言された。そこで、彼は空気中の有機体に関する彼の新しい見解に関連した実験をさらに進めた。

大気中の塵を含まない物質を確保するため、彼は筋肉、乳、血液などを遺体の内部から取り出して観察した。当初から、彼は医学の訓練を受けていなかったというハンディがどうしてもあった。彼の視点は化学者であった。パストゥールの考え方によれば、ベシャンが指摘するように⁽⁵⁾、驚異的な動物の身体が、樽(cask)の中のワインや樽(barrel)の中のビールに例えられていた。彼は筋肉、乳、血液などを化学的な近成分(proximate principles)の単なる合成物とみなした。確かに彼は、有機体の内部とビールの樽やワインの樽の内部とをある程度区別していた。しかし、有機体の内部については次のように述べている:

「変化の力(powers of transformation)を持つが、沸騰すると失う。」⁽⁶⁾

ベシャンはここで、パストゥールの精神がいかに自発的変化(spontaneous  alteration)に対する昔ながらの信念に戻っていったかを示している。 動植物の体内組成に本質的に生きているものは何もないと考えていた。そう考えることで、空中に浮遊する有機体の侵入を完全に防げば、食肉、牛乳、血液などが変化しないことを示すことがパストゥールの目的だった。その後、ベシャンが行った食肉に関する実験をパストゥールは模倣した。そして、彼自身の観察で、空気中の芽胞(germ)が侵入しないよう予防策が講じられていたにもかかわらず、食肉の筋肉の大部分が腐敗していることを発見した。その為、彼は漠然とした説明に逆戻りせざるを得なくなった。オカルト的な「変化の力(powers of transformation)」を持ち出すしかなかったのである。

同じように、卵から鳥への素晴らしい進展(evolution)についても、同じように神秘的な「変化する力(transformative powers)」以外、何の説明もできなかった。これで自然発生説(spontaneous generation)を破棄したとどうして言えるのだろうか。例えば、生物が驚異的な成長(development)を遂げたことを、自発的な変化(spontaneous change)であるとしか説明できなかった。つまり、卵の細胞から循環器、骨格系、神経系、腺、臓器、そして最後には羽毛に覆われた鳥へと成長したとき、それを自発的な変化であるとしか言えない。もし卵の物質がワインやビールと同じような化学的混合物に過ぎないのなら、それは自発的な変化(spontaneous change)に違いない。

パストゥールの「変化の力(powers of transformation) 」とは何なのか?ボネ(Bonnet)がいう「優れた変更(excellent modification)」と同じではないのか?ちなみに、この言葉は物質の組織化を意味している。また、「nisus formativus」、すなわち、生産力、植物的、可塑性と同じではないのか?これらは、ニーダム(Needham)や、後のプーシェ(Pouchet)のような自然発生を信奉する者たちが現象を説明するために使う言葉である。

パストゥールは古い学説に新しい用語を付加したに過ぎない。

しかし、そのような複雑なことは一般大衆の理解を超えていた。「街の男(man in the street)」は、実験のうわべ以上に深く探求することがなかった。この実験では、変質しやすい物質は空気を排除することで保存できることを示した。そして、大気は生きた芽胞(germs)で満たされていると言われていることから、単なる化学的な原料から生命が出現する可能性とこの問題を混同する必要はないことを示している。宗教家たちは、19世紀の唯物論的傾向に異議を唱えるような見解に対して、正当に感謝の念を抱いた。だが、その矛盾の表面的な性質については平然として無邪気であった。一方、この論争の話題とパストゥールの功績は皇帝の耳にも届いた。皇帝は他の統治者と同様、現代科学を後援する義務があると考えた。科学アカデミーの会員に選ばれた直後の1863年3月、パストゥールはチュイルリー宮殿でナポレオン三世に紹介される栄誉を得た。

いつものように、彼から数多くの特派員に、直ちにこの会見のことが知らされたようだ。彼の義理の息子は語っている:

「翌日、パストゥールは次のように書いている。❝私は皇帝に、腐敗と伝染病の原因を解明することが私の大志であると宣言した。❞」⁽⁷⁾

ここに、パストゥールとベシャンの手法の対比を示す興味深い例がある。これまで見てきたように、1860年までパストゥールの研究論文には自然発生論者としての見解が記されていた。まだ1863年であったが、彼はすでに立場を変えていたのである;―― この課題に関係するどのような証明もなされていないうちに ―― パストゥールはすでに、空気中の発酵体と、病気に関する見解と結びつけていたことは明らかである。つまり、それ以前の研究者たち(リネ(Linné)、ラスパイユ(Raspail )など)の間では、特定の有機体が特定の病気の原因であるかもしれないという見解があったのである。

私たちの中で最も優れている者も最も劣っている者も、必ず自分自身の弱さに対して説教をするものである;それゆえパストゥールは、ある偉大な作家が次のように宣言したことを正しく引用したのである:

精神の最大の錯乱は、そうであってほしいと願って物事を信じることである。」⁽⁸⁾

彼はこの危険性を十分に理解していた。なぜなら、この危険性に彼は特に敏感な人物だったからだ。

ベシャンの自分の仕事に対する姿勢は正反対だった。ベシャンは、自然を問いつめるまでは自分の妄想力で世界を作り上げようとはしなかった。直接的な要求に対して直接的な返答を得るまでは、可能性に心を奪われることを許さなかった。その場合でも、彼が結論に至る過程では実験で区切りをつけていた。要するに、彼は自然に対して指示したり、自分が発見したいことを決めつけたりしなかったのである。彼は自然に指示されるがままに、自然の啓示に従って彼は発見をしていたのである。

しかしパストゥールにとって幸いなことに、帝国からの後援は死文ではなかった。彼がナポレオンに謁見した4ヵ月後の同年7月、彼はナポレオンから、ブドウ酒の病気に目を向けるよう直接勧められた。この病気は当時フランスワインの貿易に支障をきたしていた。パストゥールは再び休暇を利用して、科学視察の旅に出た。今度はブドウ畑を訪れ、皇帝の許可を得て、自分の道を切り開いた。

一方、彼の反対論者であるプーシェ(Pouchet)、ジョリー(Joly )、ミュッセ(Musset)は、彼に倣って山に登り、小さなガラス製のフラスコに集めた空気で実験した。彼らは勝ち誇ったように戻ってきた。彼らはパストゥールより1000メートルも高い山に登ったにもかかわらず、アンプル(phials)の中に変化が見られたからだ。

ここで、この問題についての舌戦や、科学アカデミーでパストゥールを支持したフローレン(Flourens)の発言について論じる必要はない。自然発生という深遠な問題が人気を博し始めたことについて言及すれば十分であろう。1864年4月7日の夜、パストゥールがソルボンヌ大学の講義室に入り、この課題について講演した。この日、用意された席はすべて埋まり、学識ある教授だけでなく、文壇の著名人、とりわけアレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)やジョルジュ・サンド(George Sand)、さらにはマチルド皇太子夫人(Princesse Mathilde)やパリの「社交界のエリート(smart set)」と呼ばれるよく知られた流行の信奉者たちで埋め尽くされた。このような俗物達にとって嬉しいことに、パストゥールは彼らの前で難解な話をすることはなかった。 パストゥールは、親が不在であることの不可能性を主張しただけであった。この話題は深い推論を引き起こすというよりは、むしろ雑談を引き起こす可能性が高いものであった。彼は実験について説明して話を終えた。その実験では、腐敗しやすい液体から空気中の塵を除いた結果、微小動物(animalcule)が全く現れなかったという。

彼自身の言葉を引用したい:

「それは馬鹿げていた。何故なら、人間が作り出すことのできない唯一のものや、空気中に浮遊する芽胞(germs)、生命から私はそれを遠ざけてしまったからだ。生命は芽胞であり、芽胞は生命である。自然発生の教義は、この単純な実験によって致命的な打撃を受けて、決して立ち直れないだろう。」⁽⁹⁾

この不完全な真実が、1857年までさかのぼる数年前、同時代のベシャン教授によってどのように導き出されたのかについては、一言も語られることはなかった。また、ベシャンの研究論文に対する謝辞もなかった。その論文のお陰で、パストゥールは研究を前進させることができ、初期の誤りを明らかにすることができたのである。

彼は自分の手柄をすべて自分のものにした。それを十分なだけ力ずくで奪ったのだから、大衆が論争することはめったにない。流行に乗った聴衆達が撒き散らしていく姿が目に浮かぶようだ。きっと彼らは、議論中の課題を理解したことを誇りに思った(間違いなく思い込んでいたはずだ)。そして、自分たちが想像していたよりもずっと科学的で賢明であることを証明した講師に大喜びしている。

パストゥールは社交界の名士となった;教会は彼に祝福を与えた;1865年末、皇帝は彼をコンピエーニュ宮殿に招き、1週間を過ごさせた。彼の名前と名声は確立された。このような栄誉を受けたことのない科学者たちが、この幸運の寵児に逆らうことにためらいを感じたとしても不思議ではない。

しかし、ちょっと立ち止まって、ソルボンヌ大学での彼の講義を考えてみよう ―― その講義の内容は何だったのだろうか?彼は空気中の芽胞(germs)に神秘的な性質 ―― 「生命」 ―― を認めたに過ぎない。彼は、より複雑な動植物の構成要素が生命であることに否定的に捉えていた。その起源、大気中の芽胞(germs)の源について、彼は何の説明も与えなかった。その後、彼の無数の信奉者達も、何の説明も見つけていない。彼等にとって、「生命は芽胞であり、芽胞は生命である」という表現は、やがて「病気は芽胞であり、芽胞は病気である」へと発展していった ―― 限りなく陰鬱な公理である。

パストゥールは、空気中に浮遊する有機体を排除した状態で物質が変化することを否定したが、それは正しかったのだろうか?彼自身が行った食肉実験では、食肉が腐敗したことを認めざるを得なかった。これを操作の誤りによるものと仮定することは、この事例において空気中の微小有機体が出現したことを説明することにはならない。なぜなら、腐敗の原因を説明できるような空気中の芽胞(germs)が存在しないはずの事例であったからだ。つまり、パストゥールが講演の中で、自然発生説に「致命的な打撃」を与えたと自慢したことは、実際には成就しなかったのである。同時代のプーシェ(Pouchet)が満足しなかっただけでなく、その後のギュスターヴ・ルボン(Gustave le Bon)とチャールトン・バスティアン(Charlton Bastian)博士の研究が実証したように見えてしまった。彼らの見解によれば、無機物から組織化された存在(organised beings)が発生するというのである。

バスティアン(Bastian)教授は次のように主張する:

「生きている物質(Living matter)は、人間が最初に出現したときから、絶えず誕生してきたのかもしれない;しかし、人類の誰一人として、そのような誕生を見たことがない(あるいは、見る可能性がない)という事実は、その誕生の可能性に疑いを投げかけない。」⁽¹⁰⁾

バスティアン(Bastian)教授は、彼の実験などの観察から、上記の信念に基礎を置いている。彼は、「サイクロプス・クアドリコーニス(cyclops quadricornis)、池でよく見かける 切甲類(Entomostraca)の一種」を使って実験観察をしていた:

「この小さな生き物(creatures)を一匹捕まえて、蒸留水の一滴の中に入れる。そして、その水滴の両側に2号のカバーガラスの断片を置いた状態でガラス製のスリップの上に置く。そうしてから、その上にカバーガラスをかぶせると、観察される。それは、その動物がガラスの重みですぐに死んでしまうことだ。

そこで、顕微鏡用のスリップを薄い水の層(カバーグラスの下からの蒸発を防ぐために) を含んだペトリ皿の中に置く。そうすることで、尾節(tail setae)の1本(この節は腹肢の節よりも大きい)を固定して、時々調べることができる。

観察されることは次のようなことである。2~3日の間隔をおいて(期間はそのときの空気の温度によって異なる)、顕微鏡で観察すると、ほとんど動かないように見える斑点が、構造のない原形質の中央で徐々に増えていくのが見えてくる。また、さらにその後、これらの斑点のいくつかがバクテリア(bacteria)に成長するのが見えてくる...。

最終的には、脊椎の内部全体がはっきりとしたバクテリアで満たされるようになる...。

さらにその後、すべてのバクテリアが、以前は動かなかったが、活発な大群の動きを見せ始める。

ここでは、外部からの感染プロセスが存在しないことは明らかである。むしろ脊椎や 棘(setae:原文にはselaeと書かれているが、間違いと思われる。)の原形質の内容物からバクテリアが新たに発生したのである。このような状況において、バクテリアが単なる独立した動かない斑点として出現した。そして、徐々にバクテリアの形態をとった(これも最初は動かない)。これらの事実は、先に示したように、我々が予想した通りである。バクテリアが出現した場所で実際に発生したとすれば、そう言える。一方、このような出現の仕方は、予想していたこととは完全に相反する。何故なら、微小有機体(micro-organisms)が脊椎を覆う丈夫なキチン質のエンベロープを通して外部から侵入することは、考えになかったからである。」⁽¹¹⁾

バスティアン教授は、動物の内臓や果物や野菜の内部でバクテリア(bacteria )を発見した数多くの例を挙げ、侵入が不可能であることを実証している。

パストゥールの信奉者たちはその謎を解くことができるのだろうか?

もしそれができないのであれば、彼らは認めなければならない。自然発生の教義に対する「致命的な打撃(mortal blow)」を、決してパストゥールは与えていない。彼が誇らしげに自慢していたようにはできていない。その打撃を与えた人物、あるいは、少なくとも、説明をしていた人物、すなわち突然発生(heterogenesis)とは無関係に説明を与えていたのは、フランスの化学者ではない。「全パリ(all Paris)」を含む流行に敏感な聴衆のために研究するような人物でもない。勤勉なフランスの教授であり医師である。そして、化学者であり博物学者でもある。その人物はあらゆる議論にはほとんど参加しなかった。何故なら、彼は自然から最新の秘密を引き出そうと懸命に働いていたからである。

彼がパストゥールよりも先に実証していることを認めるとしても、尚且つはるかに徹底的に、空気中の有機体(organisms)の役割を説明していることを認めるとしても、まだ疑問が残る。それは、ベシャンの観察がどのように突然発生の謎(heterogenetic mystery)の深淵についてより明確に啓蒙したのか、ということである。

疑問が残ることに対する答えは、次の通りである。1857年の研究論文(memoir)の中で、教授は信頼できる観察結果を載せていない。省略した理由は、得られた結果があまりにも矛盾していて正確でないと思われたからである。彼は自分が何か間違いを犯したと思い、これらの特定の実験を当分の間脇に置いた。

結局のところ、後の頁で述べるように、彼の明らかな失敗は、最終的には問題の解決策をもたらした。また組織化された生命(organised life)の発展を、最も微細な始まり(most minute commencements)から説明することにもなった。

実際、彼によれば、その失敗は、動物や植物の成長や、健康、病気、そして最終的な崩壊の過程について、これまでで最も真理に近い解明を与えることになった。要するに、自然から驚異的な真理をもぎ取ることになったのだ:

「死の餌食(prey of death)は存在しない;すべては生命の餌食(prey of life)なのだ!」

訳者註)「死(death)」とは、単なる化学物質を指しているのかもしれない。生命は生命からしか生じないことを言いたいのかもしれない。


脚注

  1. Eleventh edition.
  2. Comptes Rendus 75, p.785 (1872).
  3. Annales Scientiques de l’École Normale, 2, 6. 249 (1865).
  4. Comptes Rendus 75, p.1523.
  5. Les Microzymas, p.754.
  6. ibid, p.390.
  7. The Life of Pasteur, René Vallery-Radot, p.104.
  8. Comptes Rendus 80, p.91 (1875).
  9. The Life of Pasteur, by René Vallery-Radot, p.109.
  10. The Evolution of Life, H. Charlton Bastian, p.31.
  11. The Nature and Origin of Living Matter, H. Charlton Bastian, p.110.

可溶性酵素
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「小さな物体」
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