ベシャンか?パストゥールか?

第2部

ベシャンか?パストゥールか?

-生物学史における失われた一章

Béchamp or Pasteur? ― A Lost Chapter in the History of Biology

 


原 題:「Béchamp or Pasteur? - A Lost Chapter in the History of Biology」

著 者:Ethel Douglas Hume

出版年:1923

掲載本:「BÉCHAMP OR PASTEUR? - A LOST CHAPTER IN THE HISTORY OF BIOLOGY」(PDF)

 



第2章 ミクロザイマ

THE  MICROZYMAS

9.蚕の病気

Diseases of Silkworms

1865年初頭、蚕の間で流行した伝染病は非常に深刻なものとなった。そして、フランスの養蚕業は深刻な脅威にさらされた。卵、幼虫、さなぎ、成虫(moths)のすべてが被害を受けた。この病気は、微小な物体(microscopic object)が観察されたことで特徴付けられた。この物体を「微細動する小体(vibrant corpuscle)」、もしくは、それを最初に観察した科学者の名前にちなんで「コルナリア小体(Corpuscle of Cornalia)」と呼んだ;一方、この病気は一般に、ペブリン病(pébrine)という名で知られるようになった。これはパトワ語のpébré、すなわち胡椒に由来する。

パストゥールが農務大臣からこの問題を調査するよう任命されたのは、デュマ(Dumas)が進言したことがきっかけであったようだ。この問題に関する一般向けの講演会に出席した人なら、知らない人はいないであろう。パストゥールの業績が原因で、フランスに対して賠償した金額の方が、1870年以降にドイツがフランスから搾り取った戦争賠償金よりも多いということを。

実際に起こったことは、パストゥールの幸運が彼に対して異常に有利に働いたということである;もしベシャン教授が蚕の謎の解決策を彼に提供しなかったら、全く違った物語が語られていたかもしれない。

ベシャンの知性の鋭さは、彼がペブリン病(pébrine )の原因を解明し、予防法を提案した早さから、よく表れている。彼は全くの無援助で、いかなる経費も自腹を切らざるを得なかった。しかし、1865年にはすでに、彼は説明することが可能だった。ペブリン病は寄生虫症(parasitical disease)である。また、クレオソートは寄生因子(parasite)の攻撃を防ぐために使用することができる。

しかしその間に、パストゥールは政府から蚕の問題の公式調査を任されていた。省庁の官僚的形式主義について知っている人なら、誰も不思議に思わないだろう。ベシャンの判断をすぐに受け入れるのではなく、農協は公式の代表者の発表を待っていた。多くの忍耐が必要だった!

1865年6月に、パストゥールは任務遂行のためにアレー(Alais)に到着した。彼は以前から、科学アカデミーに宛てた報告(note)で述べていた⁽¹⁾。その報告によれば、彼はこの分野に無知であったため、新たな仕事に就く「適切な資格を所持していない」とのことだった。「私は蚕に触れたことすらありません」とデュマ(Dumas)に手紙を書いていた。 カトルファージュ(Quatrefages)が書いた蚕の歴史に関するエッセイを熟読することが、1865年6月までの彼の勉強であった。

しかし、いくつかの声明が彼に期待を寄せていた通り、彼は同年9月25日に科学アカデミーに提出した書類をまとめることができた。しかし、そこには次のような驚くべき記述があった:

「小体(corpuscles)は動物性でも植物性でもない。しかし、形状は多かれ少なかれ癌細胞や肺結核の細胞に似ている。 体系的(methodic)な分類の観点からは、滴虫(infusoria:水に浸った腐敗有機物にいる微生物の総称)やカビ(moulds)というよりも、むしろ膿の小滴、血液の小球、あるいは澱粉の小粒と比較するべきであろう。多くの著者が考えているように、小体は動物の体内で浮遊しているようには見えない。しかし、細胞の中によく存在している… 幼虫よりもさなぎにこそ、適切な治療法を施すべきである。」⁽²⁾

このような記述がベシャン教授の嘲笑を誘ったことはよく理解できる。彼は軽蔑してこう書いている:

「...この化学者は、発酵のことで頭がいっぱいで、自分が発酵体(ferment)を扱っているのかどうかさえ決めかねている。」⁽³⁾

以前触れたように、ナポレオン三世は科学に深い関心を抱いていた。とにかく、彼と女帝はパストゥールの話に辛抱強く耳を傾けた。パストゥールは地位の高い外交官や芸術・文学界の輝ける人々と親しく接しただけでない。特別に帝国の寵愛を受ける者としてこれらの著名人の中から抜擢されたのである。 彼は蚕の問題に対する困惑をウジェニー(Eugénie)に打ち明けた。すると、彼女はパストゥールに新たな努力をするよう励ました。帝室から微笑みかけられた者は必ず脚光を浴びるものである。同僚の多くがパストゥールに対して次第に敬意を示すようになったのは容易に理解できる。

蚕の病気に関しては、正しい判断が下されるよう注意深く見守る代わりに、世間一般は、パストゥールがこの問題について何を言うかを待つだけだった。

1866年2月、パストゥールはトラブルに見舞われていたフランス各地に再び赴いた。今度は科学者の助手たちの仲間とともに組織を強化した。政府は再び可能な限りの援助を与えた。そして、公教育大臣(Minister of Public Instruction)はルイ・ル・グラン(Louis le Grand)大学のジェメズ(Gemez)教授に特別休暇を与えた。彼はパストゥールを助けるために休暇が与えられたのだ。しかし、このような援助にもかかわらず、またかなり早い昇進で あったにもかかわらず、彼の伝記を書く著者は認めなければならない。パストゥールは結局「多くの批判を浴びていた」⁽⁴⁾ということに。パストゥールの実際の発表を彼の義理の息子は賢明にも無視している。彼の発表では、多岐にわたってトピックを紹介している。まるで、しつこく質問を続ける読者の注意をそらすかのように:「結局、蚕の謎に対するパストゥールの解決策は何だったのか?」

幸いなことに、フランス科学アカデミーの報告書に正確なその答えを見つけることができる。しかし、最初に読むべきはパストゥールによる文書ではなく、ベシャン教授による文書である。すなわち、1866年6月18日付の記事である⁽⁵⁾。

ベシャンは、教授としての職務と他に扱っている課題の絶え間ない研究の最中に、時間を縫って、ペブリン病(disease pébrine)に関する完全な詳細とその予防策をアカデミーに送った。彼の報告書のタイトルは「蚕の飼育におけるクレオソートの蒸気の無害性について(On the Harmlessness of the Vapours of Creosote in the Rearing of Silkworms)」であった。彼は前年に行った発表を繰り返し、はっきりとこう述べた:

「この病気は寄生因子(parasitical)による疾病である。ペブリン病(pébrine)は幼虫を外部から攻撃する。そして、寄生因子の芽胞(germs of parasite)は空気中から入ってきたものである。 一言で言えば、この病気は主として体質的なものではない。」

彼は説明を続けた。どのようにしてケージの中で蚕の卵(eggs)、いわゆる種(seeds)を育てたか。そして、そのケージの中で、非常に微量の薬剤を使用して、クレオソートの臭気を発生させたのである。こうして孵化した卵はすべてペブリン病(pébrine)にかからなかった。ベシャン教授は、確証を得るまで決して自説を述べることはなかった。しかし、ペブリンに関するこの結論の中に、決定的な明確さを見いだせる。これは彼のあらゆる意見を特徴づけるものである。

パストゥールはまだ闇の中にいた。彼はベシャンの見解が正しいかどうかを判断する洞察力さえ持ち合わせていなかった。しかし、このベシャンの手記は、間違いなく彼にとっての試練であった;ここに、他の研究者がある課題について発表している。それは、女帝が公式に彼に委託した課題であった。それ故、 1866年7月23日、パストゥールはペブリンの性質について科学アカデミーに報告することで、肩の重荷を下ろした。 そのタイトルは『蚕の病気に関する新しい研究(New Studies on the Disease of Silkworms)』⁽⁶⁾であった。

そしてこれから、パストゥールが「養蚕業の救済」のために提供したと言われる偉大な発見を探さなければならない。それがこれである:

「健康な蛾とは、小体(corpuscles)のない蛾のことである;健康な卵(seed)とは、小体のない蛾に由来するものである。」

このような明白な結論は笑止千万である。しかし、この結論が誤りであると非難することができないように、パストゥールはそれ以上踏み込まなかったのである。代わりに彼はこう続けた:

「私は蚕の病気は現実に存在しないと信じたい気持ちが強い。蚕の病気に関する私の考えを明確にするのは難しい。肺結核(pulmonary  phthisis)の影響と比較するのが一番である。 今年の私の観察により、次のような意見が強くなった。この小さな有機体(organisms)は微小動物(animalcules)でも隠花植物(cryptogamic plants:花をつけないで胞子で繁殖する植物)でもないということである。私にはこう思える。この有機体は、主にあらゆる器官の細胞組織である。そして、この器官が、それが小体(corpuscles)に変化したり、その有機体を生成したりするのである。」

もし真実(true)なら驚異的であったであろう事実(fact)を、彼は一つも証明しなかった: 彼は、何一つ示唆を与えなかった。小体(corpuscle)や病気との関係において、生命の不在(absolence)を 断言するために実験をしたにもかかわらず。最後に、彼はわざわざベシャンに反論し、そうすることで自分の失態を決定的に隠蔽した:

「特にムコリーナの胞子(spores of mucorina)と小体(corpuscles)の類似性から、寄生因子(parasite)が養蚕場に侵入したと考えたくなるだろう。それは間違いである。」

他の研究者を意図的に攻撃したことは、非常に不運であった。何故なら、パストゥールが正しい解決策に反駁したことの証拠となったからだ ── その後、彼はその解決策を主張するようになった。パストゥールは、一度は自然発生説論者(sponteparist)だった見解を完全に放棄していた人物である。つまり、あらゆる発酵作用(fermentative effects)や、あらゆる生命現象(vital phenomena)が大気伝播に起因するものであるとしていた。しかし、今では、病気の起源が外部から来ることをを否定しているのである。一方で、ベシャンが疑いの余地なく寄生因子(parasitic)による病気であることを証明していた。

ベシャンはすぐに、実験の説明を加えてその結論を固めた。彼の主張の根拠となる実験である。1866年8月13日に、彼は科学アカデミーに寄稿した:『流行中の蚕の病気の性質に関する研究(Researches on the Nature of the Prevailing Disease of Silkworms)』⁽⁷⁾。この中で彼は、卵(seeds)と幼虫を洗浄する方法について述べた。そして、罹患した卵や幼虫が寄生因子(parasite)に侵されていることを証明した。パストゥールへの回答として、彼は宣言した。その振動しながら動く小体(vibrant corpuscle)は、

「…病理学的な産物ではなく、膿の小滴や癌細胞、もしくは肺結核に類似したものでもない。それは間違いなく植物性の細胞である。」

8月27日、再びアカデミー⁽⁸⁾に実験について記された文書が発表された。そこでは、微細動する小体(vibrant  corpuscle)が組織化された発酵体(organised ferment)であることが証明された。

その後、翌1867年2月4日、新たな報告書がアカデミーに送られた⁽⁹⁾。その報告書には、さらに詳しい実験結果が記されていた。その実験では、小体(corpuscle)が発酵体(ferment)であることが示されただけではない。糖分を転化(inversion)させた後、発酵が進み、アルコール、酢酸、そして別の不揮発性の酸(non-volatile acid)が生成されたことも示されていた。

1867年1月、留守にしていたパストゥールはアレー(Alais)に戻った。彼は、ベシャン教授の説明にようやく開眼したようだった。教令大臣(Minister of Public Instruction)のデュリュイ(Duruy)に宛てた手紙の中で、パストゥールは蚕の病気の謎を解いたのは自分だと主張し始めたようだ。 これは、ベシャン教授が提出した、請願を説明するものであろう。ベシャンは、正しい科学的説明を提供することで、彼の卓越した優先権を認めるよう求めたのである。

1867年4月29日、ベシャンは科学アカデミー⁽¹⁰⁾にさらに完全な説明を提供した。その中で、彼は、次のような意見を述べた。微細動する小体(vibrant corpuscle)は芽胞(spore)である。また、死んだ幼虫(worms)、さなぎ、蛾の抽出液(infusion)の中でこの芽胞が増殖するが、クレオソートがこの増殖を抑えることを実証した。 彼はこの報告書に、この小体(corpuscle)の増殖の様子を顕微鏡で観察した際にそれを図案化したプレートを付け加えた。彼はこう付け加えた:

「こうして、ペブリン病(pébrine)の寄生因子説(parasitic theory)が完成した。私は、この成功のために、2年近く奮闘してきた。私は次のような期待に賭ける。この知見とそれを実証した実験で以て私に優先権があることに異論が出ないと。」

彼は明らかにしていた。その前の8月までは、彼一人だけが自分に優先権があるという見解を持っていたことを。ただ、ル・リック・ド・モンシー氏(M.Le Ricque de Monchy)だけは例外であった。ベシャンは彼の励ましと有能な支援に感謝の意を表した。

ベシャンにとって不運なことに、パストゥールには名誉を重んじる習慣がなかった。教授の反論の余地のない証明に、意に反して納得させられたパストゥールは、もう顔を背けるしかなかった。以前、彼がしたように。ベシャンが自然発生説(spontaneous generation)の誤りを明白に証明した時も、彼はそうするしかなかった。

同じ1867年4月29日、科学アカデミーの報告書⁽¹¹⁾の中に、パストゥールがデュマ(Dumas)に宛てた4月24日付の書簡があった。この手紙の中でパストゥールは、次のような理由で自分の誤りを弱々しく弁解している。彼が「多くの高名な人々」と親しい間柄にあって自分が誤った見解を持っていたと。また、小体(corpuscles)の増殖の方法(mode of reproduction)を認識することが不可能であることを弁明している。ベシャン教授の発見に対する謝辞を述べる代わりに、パストゥールは冷淡にも、次のような希望を表明した。近いうちに自分自身がこの病気に関するほぼ完全な研究を発表できるだろうと。彼が謝辞を示さなかったのは、パストゥールが明確な理解を求め続けていたことの顕著な証明である。

1867年5月20日付の報告書⁽¹²⁾の中に、5月13日付でベシャンが科学アカデミー会長に宛てた書簡がある。この書簡の主題は『前年4月のパストゥールの報告(Pasteur’s communication of the previous April)』であった。彼は、パストゥールが以前に誤った見解を有していたことを指摘している。そして、小体(corpuscles)の真の性質とその増殖の方法(mode of reproduction)の発見において、ベシャンに優先権があることを主張している。

同じ日、彼は『流行している蚕の病気の歴史に役立つ新事実と微細動する小体の性質(New Facts to Help the History of the Prevailing Disease of Silkworms and the Nature of the Vibrant Corpuscle)』を発表した⁽¹³⁾。ここで彼は次のことを主張した。小体(corpuscle)は空気中に浮遊しており、桑の葉に付着している。それ故、蚕の餌となる葉の準備には細心の注意が必要である。しかし、この研究報告(memoir)の中で最も注目すべき事実は、ベシャンがペブリン病(pébrine)以外にもう一つの蚕の病気を特定したことである。

博物学者ジョリー(Joly)が、病気の幼虫(worms)の腸管にビブリオ(vibrios )菌が存在することをすでに観察していた。その菌は、モート・フラット(morts-flats)またはレステ・プティ(resté-petits)と呼ばれていた。しかし、この病気に関しても全く知られていなかった。この病気は、フラシェリー病(flacherie:軟化病)として知られるようになった。それはペブリン病(pébrine:微粒子病)でも見られた。

前年の4月11日、ベシャン教授はすでにこの第二の蚕の病気に関するパンフレットを発表している。その後、1868年7月に科学アカデミーにその説明を提出した。科学アカデミーはこの病気に関する言及を挿入した⁽¹⁴⁾。このパンフレットの中で彼はこう書いている:

「非小体(non-corpuscular)の卵(seed)は、ド・モンシュイ(de Monchy)や私が観察したように、卵子(vitellus)の球体と脂肪球(fatty globules)以外に、他の生成物を含んでいることがある。それらは運動する点(motile points)である。その点は、点を取り囲む他のものよりもはるかに小さい。そして、しばしば過剰に多いことがある。我々はこれらの運動する点を、ミクロザイマ・アグレアエ(microzyma aglaiae)と仮に呼んでいる。その意義がはっきりするまではそう呼ぶことにする。

結論として、その点の親が不明である限り、最良の方法は、次のような卵(seeds)だけを用意することである。それは、内面的にも外面的にも小体(corpuscular)ではなく、ミクロザイマ・アグレアエ(microzyma aglaiae)を持たないものである。」

5月20日付の通信で、彼はさらに詳しく説明した。そして、以下のことを示した。他の病気では、微細動する小体(vibrant corpuscles)がまったく見らない。一方、その代わりに運動する粒子が目につく ―― チョークの中で観察したものと似ていて、同様に微細である。そしてこれらの粒子について、彼は今、ミクロザイマ・ボンバイシス(microzyma bombycis)と名づけた。それは、その2つずつが組み合わさって、8の字のようになっているからである⁽¹⁵⁾。

蚕の病気の問題について次に報告されたのは、1867年6月3日のことである⁽¹⁶⁾。それは、デュマ(Dumas)へ宛てたパストゥールからの2通の手紙であった。

最初の手紙については、パストゥールは奇妙な説明をせざるを得なかった。この手紙の日付は「アレー(Alais)にて、4月30日」である。パストゥールは注釈(note)の中でこう述べている。この手紙は5月4日にアレーから発送され、郵便の手違いでデュマ(Dumas)の手に届いたのは5月22日であった。それはともかく、4月30日という日付は、4月11日よりも後である。4月11日は、ベシャン教授がフラシェリー病(flacherie)についての最初の説明を発表した日である;パストゥールは手紙の中で、小体の病気(corpuscular  malady)は養蚕業を苦しめる唯一のものではない、とほのめかしているにすぎない。ペブリン病(pébrine)に対する予防策として、彼は、小体(corpuscles)を持たない蛾からしか卵(seed)を取らないという方針を打ち出した。しかし、ベシャンが指摘していたように⁽¹⁷⁾、この方針は馬鹿げている。病気に関与している寄生因子の性質(parasitic nature)や、寄生因子(parasites)が桑の葉に多く存在しているという事実を考慮すれば無理がある。

デュマ(Dumas)に宛てたもう一通の手紙は1867年6月3日に公開された。その手紙の日付は「アレー(Alais)にて、5月21日」であった。ここでパストゥールはこのように述べている。別のトラブルがしばしばペブリン病(pébrine)と間違って混同されるのだ、

「…というのも、きわめて多くの症例で、この2つの病気は何の関係もなかった。また、少なくとも、直接的な関係もなかったのである。」

この2つの病気(complaints)の完全な差異を考慮すると、ベシャンがすでに示したように、微細動する小体(vibrant corpuscles)は、フラシェリー病(flacherie)の症例において、まったく見られないことが多い。パストゥールのこのコメントは、次のことを示している点で注目に値する。つまり、彼のこの問題に対する理解力は、ライバルの理解力には及ばなかったということである。

一方、ベシャンは懸命に研究に励んだ。そして、養蚕業委員会に研究報告(memoir)『ペブリン病に関与する微細動する小体の変化と「レステ・プティ」と呼ばれる病気の性質について(On the Transformation of the Vibrant Corpuscle of Pébrine and on the Nature of the Disease called 'Resté-Petits' )』を送った。この重要な通信に関して、1867年6月10日に科学アカデミーが概要(abstract)のみを発表した。一方、同年7月1日には、アカデミーが、もう一つの研究報告(memoir)を発表した。この報告もベシャンが最初に養蚕業委員会に送ったものである。題名は『ペブリン病に関与する微細動する小体の糖化について(On the Saccharification of the Vibrant Corpuscle of Pébrine)』であった。

ここで彼は、小体(corpuscle)に関する完全な説明を行った。彼は、苛性カリ(caustic  potash)水溶液では振動運動(oscillating  movement)を失うが、この液体では不溶性であることを示した。また、沸騰させると硫酸(sulphuric acid)に溶けることを発見した。そして、グルコースが硫酸(sulphuric acid)、炭酸バリウム(barium carbonate)、アルコール(alcohol)、水(water)で連続的に処理することによって生成されることを証明した。最後に彼は、微細動する粒子(vibrant particle)にはセルロースが含まれているという結論に達した。

蚕の病気に関する公式の調査官であったパストゥールから、科学アカデミーの報告書には、ほぼ1年間、この件に関する続報が掲載されていない。

それとは対照的に、ベシャンの一連の研究報告(memoirs)は、次に述べる筋道を示している。微小有機体(micro-organisms)に関する彼の詳細で根気強い研究が、フラシェリー病(flacherie)と呼ばれる蚕の病気を最終的に理解することにつながったのである。

彼はすでに1867年4月2日に、『唾液中の微視的有機体(Microscopic Organisms in Saliva)』に関する報告(note)をアカデミーに送っていた。その内容はあまりに新しく、予想外であった。そのため、概要(résumé)が記されているのみとなった⁽¹⁷⁾。

1868年2月24日、彼は『発酵体と動物組織の分子顆粒(ミクロザイマ)(The Molecular Granulations (Microzymas) of Ferments and of Animal Tissues)』⁽¹⁸⁾に関する報告を発表した。ここで彼はワクチンウイルス(vaccine virus)に見られる微小有機体(micro-organisms)に注目した。しかし、この確認はショーヴォー(Chauveau)によって無断引用されている。

1868年3月2日、彼は『肝臓の細胞の分子顆粒(ミクロザイマ)(The Molecular Granulations (Microzymas) of the Cells of the Liver)』⁽¹⁹⁾に関する報告(memo)を送った。

1868年5月4日、彼は『バクテリアの起源と発生(On the Origin and Development of Bacteria)』⁽²⁰⁾を提出した。 これは、解剖学的要素(anatomically elemental)となるミクロザイマ(microzymas)からバクテリアが発生することを一般的に示したものであった。

 1868年6月8日、彼は『蚕のミクロザイマ病について(On the Microzymian Disease of Silkworms)』⁽²¹⁾と題した報告(note)の中で、それまで明らかにしてきた事実をすべてフラシェリー病(flacherie)に適用した。ここで彼は、フラシェリー病(flacherie)は遺伝性であると述べている。つまり、蚕が本来持っている要素(elemental)であるミクロザイマが異常に増殖するためである。彼は、次のことを示した。ミクロザイマは、単独で、あるいは数珠状に連結しているように見える。もしくは、非常に小さなバクテリアの形態で観察される。それらを見るために顕微鏡に高い能力が要求されるが、それは「obj. 7, Oc. 1, Nachet」以外にない。 彼は、政府から研究者に支給された顕微鏡は十分な性能がなかったと述べている。

彼は、ミクロザイマとバクテリアが同じ幼虫(worm)の中に存在する可能性があることを示した。しかし、ミクロザイマの数がバクテリアの数と反比例していることは注目に値すると思われた。病気の蛾から卵(seed)を取るのは無駄である。病気かどうかは、腹部の内容物を調べれば区別がつく。彼は、次のことを指摘した。ミクロザイマを単離するためには、苛性カリ(caustic potash)で処理する必要がある。苛性カリは他のものをすべて溶かしながら、要素である微小有機体(micro-organisms)だけを残すことができる。

こうしてベシャン教授は、最初にペブリン病(pébrine)の原因と予防法を完全に説明したように、今度は2番目の蚕の病気であるフラシェリー病(flacherie)についても同様に明確で完全な説明を行った。 彼が示したのは、ペブリン病とは異なり、この病気は外部からの寄生因子の侵入が原因ではないことである。だが、蚕の体細胞内のミクロザイマの異常な不健全な発達が原因であることを示したのである。

こうして、養蚕業のトラブルが彼に病状を完全に理解させ、それを実証する機会を与えたのである。彼は、一方では寄生因子(parasitic)による病気(complaint)を明確に説明することができた。そして、他方では、外来因子によるものではない。そうではなく、解剖学的要素(anatomical elements)の病的状態(disease status)によるものであると説明した。

パストゥールは、ベシャンが発表したすべての報告を熟知していた。だが、残念なことに、ライバルの科学的成功を賞賛する寛大さは持ち合わせていなかった。否定しがたいことは、彼が考えていることは、自分自身のことであるということである。そして、いかにして自身の主張の正当性を証明するかということであった。

以前述べたように、ベシャンのフラシェリー病(flacherie)についての説明が発表された。1868年6月8日の科学アカデミーの報告書に掲載されている。6月29日の報告書には、1868年6月24日付のパストゥールからデュマ(Dumas)へ宛てた手紙が含まれている。ここでは、驚くようなことが書かれている。パストゥールが臆面もなくはっきりと主張しているのだ。自分がこの第2の蚕の病気に最初に注目し、ペブリン病(pébrine)と区別したのだと。

しかしパストゥールは間違いなく、アカデミーの報告書にそのような証拠がないことを認識した。そして、報告(note)の全文を挿入するよう要求した。その報告は、1868年6月1日にアレー農業協会(Agricultural Society of Alais)に送ったものだとパストゥールは主張した。パストゥールの手紙は、正式に挿入された。そして、その記事は、『「モルト・ブラン(Morts-Blancs)」または「モルト・フラット(Morts-Flats)」として一般に知られている蚕の病気に関する報告(Note on the Silkworm Disease as commonly known as 'Morts-Blancs' or 'Morts-Flats')』と表題が付けられた。

パストゥールによるこれらの通信を読めば誰もが驚愕する。何故なら、彼がある考えを世間に広めたからだ。その考えとは、蚕の病気を解明したのはパストゥールであるというものである。ペブリン病(pébrine)に関して彼が迷走していたように、長い時間をかけて研究してきた今でも、彼はフラシェリー病(flacherie)に関して価値あることを何も語っていない。 彼は、ある事実に言及することなく、この病気に関連する有機体(organisms)について言及した。その事実とは、トゥールーズ(Toulouse)理学部のジョリー(Joly)や、ベシャン教授が、彼よりもずっと前に、その有機体を観察していたことである。彼は、これらの有機体(organisms)がこの病気の原因であることを示すものは何もないと考えた。そして、消化器系のトラブルの結果であると考えた。彼はこう書いている:

「腸はもはや機能せず、何らかの原因により、腸が包んでいる物質は、あたかも不動の容器の中にあるかのように位置している」

当然ながら、ベシャンはパストゥールに回答せざるを得ないと考えた。そして、1868年7月13日のフランス科学アカデミーの報告書⁽²³⁾の中に、『パストゥール氏からの最近の通信に関連する蚕のミクロザイマ病について(On the Microzymian Disease of Silkworms, in regard to a Recent Communication from M. Pasteur)』と題された教授のメモがある。

ここでベシャンは、以前1867年4月11日に発表した小冊子に言及している。この小冊子でベシャンはル・リク・ド・モンシュイ(Le Ricque de Monchy)とともに、モルト・フラット(morts-flats)に関連する有機体(organisms)について注意を喚起している。彼は、5月13日に発表した過去の通信について言及した。この通信は、5月20日のアカデミーの報告書の中に掲載された。さらに1867年6月10日の報告(note)にも言及している。また、彼は、小冊子の第二版を出版した。この小冊子に、彼は、ミクロザイマの病気であるフラシェリー病(flacherie)に関する意見を加えている。また、ベシャンは、ある事実に注意を向けている。1867年7月4日から、蚕業関係者(ライボー・リアンジュ氏(M. Raibaud l’Ange))が、この病気を研究するためにモンペリエ(Montpellier)にいるベシャンを訪問させてほしいと手紙を書いていた、という事実である。

パストゥールはライボー・リアンジュ氏(M. Raibaud l’Ange)の力を借りるために、彼を呼び寄せてこれに応じた。つまり、ベシャンに宛てた手紙は、ライボー・リアンジュ氏が自分の目的のためにモンペリエを訪ねたことを告白したに過ぎなかったと。 それに対して、政府代表、つまり帝国の庇護を受ける名誉ある人物の怒りを買うことを恐れたライボー・リアンジュ氏は、お世辞を並べてパストゥールを擁護し、ミクロザイマ⁽²⁴⁾を嘲笑した。

ベシャンは1868年8月17日にライボー・リアンジュ(Raibaud I'Ange)に返信した。企画表(table of designs)を思い出させるためだった。その企画表は、1867年6月8日の報告(note)に添えられていたものである⁽²⁵⁾。

ベシャンの返信に、誰も返事をしなかった。後にベシャンが述べたように⁽²⁶⁾、アカデミーは盗作を認めるかもしれない。だが、誰もそれを否定することはできないだろう。間違いなく、ベシャンの正当な主張を脇に置くことなど全くできない。その主張によって、パストゥールはこの時以来、彼の優秀なライバルを憎むようになった。 ベシャンが蚕の病気に対処したことで得た並外れた成功は、何よりも注目に値するものであった。なぜなら、彼は政府からの援助 ―― 金銭的なものであれ、そうでないものであれ ―― を一切受けていないからである。また、この問題に費やす時間もなかったからである。彼は、自分の科学的研究とはまったく別の仕事で既に時間が取られており、教授としてのキャリアから、ほんのわずかな時間を捻出したに過ぎないのである。

一方パストゥールは、自由に使える政府の援助があった。あらゆる費用が支給され、科学的助手がいた。さらに、研究を遂行するための完全な自由な時間も与えられていた。自分が失敗したところに他の人が大成功を収めたことは、彼にとって恨みに違いなく、その嫉妬心からベシャンに対する紛れもない迫害が始まった。彼は、自分の地位を確信していた。それは最高の影響力を背景にしたものである。そして、庇護を受けている皇帝の記憶から自分が消え去ることを許さなかったことは確かであろう。ワイン発酵に関する著書では、彼は皇帝への序文から始めている。一方、蚕の病気に関する著書の冒頭にも同じように皇后への献辞があった。 このような問題を最初に解明した人物に対する敬意を惜しまない記述を探しても無駄かもしれない。それどころか、彼は自分の手柄をすべて自分のものにしている⁽²⁷⁾。さらには、クレオソートを予防薬として支持するベシャンの議論⁽²⁸⁾をわざわざ嘲笑している。

しかし、アメリカの格言に真実がある。ある間はすべての人を、またいつまでも一部の人を欺くことができても、いつまでもすべての人を欺くことはできない(you may fool all the people some of the time and some of the people all of the time, but never all of the people all of the time);だからパストゥールの利己的な主張は、科学的な報告書に直面することで完全に失敗しなければならない。その報告書とは、我々が参照してきたものである。そして、例えば大英博物館の図書館で誰でも入手できる。これらの報告書が、紛れもなく証明している。つまり、アニリン染料に関してフランスに多大な利益をもたらしたこの人物は、祖国に蚕の病気に対する正しい判断を提供し、予防法を提案した人物でもあるということを。

残念なことに、実用的な対策はパストゥールに任された。そして、それに関する最良の論評は、ルタード(Lutaud)博士⁽²⁹⁾が報告した養蚕業に関する事実である。彼はかつてパリの医学雑誌(Journal de Médecine)の編集者であった。

蚕の問題が始まった1850年頃には、フランスは年間約3000万キログラムの繭を生産していたと言われている。 1866~1867年には、生産量は1,500万キログラムにまで落ち込んだ。パスツールの「予防法」が導入されると、生産量は1873年の800万キログラムから減少し、その後のある年には200万キログラムにまで落ち込んだ。ルタード(Lutaud)博士はこう書いている:

「これがパストゥールが養蚕業を救った方法である! 無知で近視眼的な人々の間で、この点においてパストゥールが今なお保っている名声は、次のようにして生まれた。

1) 自分自身の手によって。不正確な主張によって;

2) パストゥール方式で微細な蚕の卵(seed)を販売する業者によって。彼らは養蚕業者の犠牲の上に大きな利益を得ている;そして、

3) アカデミーや公的機関の共謀によって。彼らは何の調査もせずに、養蚕業者にこう答える: ❝しかし養蚕業は救われる!パストゥールのシステムを利用せよ!❞と。しかし、誰もが、こんなシステムを使いたがるわけではない。このシステムは、他者を破滅させることで自分自身を富ませるものだ。

恐らく、パストゥールの嫉妬が招いた最大の弊害は、障壁である。彼が築いた障壁が、ベシャンの研究、特に彼の細胞理論(doctrine)とミクロザイマ説(microzymian theory)が注目されることを妨げたのである。

パストゥールがした多大な努力は、こうした考えを否定するために費やされた。その為、友好的な動機に影響されたアカデミーの会員たちは、ミクロザイマという言葉の使用そのものを取りやめるよう、ベシャン教授に懇願したほどであった!

こうして不幸なことに、科学が奨励されるどころか抑制されるようになった。そして、あらゆる場面で、ベシャンは、自分の仕事が邪魔されていることに気づいた。彼は、細胞学(cytology)と生理学(physiology)の基礎を築くべく研究に従事していた。また、誕生と生命、健康と病気、死滅と崩壊における解剖学的要素(anatomical elements)のプロセスを明らかにするのが、彼の仕事であった。

蚕の病気「ペブリン病(pébrine)」と「フラシェリー病(flacherie)」を

正しく判断したのは誰か?

1865年

ベシャン

エロー(Hérault)農業協会の前での声明を出した。ペブリン病(pébrine)は寄生因子(parasitical)による疾病である。また、寄生因子(parasite)の予防剤としてクレオソートを提案した。

パストゥール

科学アカデミーへの声明⁽³⁴⁾を出した。ペブリン病(pébrine)の小体は動物性でも植物性でもない。分類上の観点からは、膿の小滴、血液の小球体、あるいは、より可能性が高いのは、デンプンの顆粒の部類に入れられるべきである!。


1866年

6 月 18 日⁽³¹⁾

アカデミーへの声明を出した、この病気は寄生因子による疾病(parasitical)である;つまり、ペブリン病(pébrine)は、初期段階において幼虫を外部から攻撃する。そして、寄生因子(parasite)は空気中に存在する、と。この病気は体質的なものではない  ペブリン病(pébrine)を患っていない卵(seeds)を孵化させる方法について述べた。

8 月 13 日⁽³²⁾

科学アカデミーへの声明を出した。寄生因子(parasite)が植物のような性質を持つ細胞であることを記述した。

8月27日⁽³³⁾

科学アカデミーへの声明を出した。ペブリン病(pébrine)において、微細動する小体(vibrant corpuscle)が組織化された発酵体(organised ferment)であることを証明した。

7 月 23 日⁽³⁵⁾

アカデミーへの声明を出した。寄生因子(parasite)が蚕室に侵入したと考えたくなる:しかし、それは誤りである、と述べた。特別な蚕の病気が存在するわけではないが、それは肺喘息の影響と比較されるべきものである、と信じたい。 小さな有機体は動物でもなければ隠花植物(訳註:古い分類によるシダ,コケ,菌類,藻類などの植物の総称)でもない。


1867年

ベシャン

2 月4日 ⁽³⁶⁾

科学アカデミーへの声明を出した。有機発酵体(organised ferment)を原因とするペブリン病(pébrine)に関する更なる研究について述べた。

4月11日

パンフレットを発行した。蚕のもうひとつの病気--モルト・フラット(morts-flats)またはレステ・プティ(resté-petits)、通称フラシェリー病(flacherie)に注意を喚起した。

4月29日⁽³⁷⁾

科学アカデミーへの声明を出した。ペブリン病(pébrine)における微細動する小体(vibrant  corpuscle)について述べた。その小体が芽胞(spore)であることを証明し、図案のプレートを提供した。 彼の正しい判断の優先権が争われることはないだろうという希望を表明した。

5 月 20 日⁽³⁸⁾

アカデミーへの声明を出した。「新事実」について述べた。及び、もう1つの病気であるフラシェリー病(flacherie)をペブリン病(pébrine)と明確に区別した。

6 月 10 日

科学アカデミーは、以前養蚕業委員会に送られた2つの病気に関する通信の抜粋を発表した。

パストゥール

4 月 29 日⁽³⁹⁾

多くの高名な人々と関係を持ちながらも、信じていたことに誤りがあることを告白した!ペブリン病(pébrine)における微細動する小体(vibrant corpuscles)が、血液、膿、デンプンの小滴に類似していると信じていた!

6 月 3 日⁽⁴⁰⁾

デュマ(Dumas)に宛てた手紙が科学アカデミーに届いた。 病気に対する予防策は、小体を持たない蛾からしか卵(seeds)を取らないことである(この記述は、パストゥールがまだペブリン病(pébrine)の寄生性を理解していなかったことを証明するものである)。

小体の病気が養蚕業を苦しめているだけではないと暗示した。デュマ(Dumas)宛の別の書簡⁽⁴¹⁾が科学アカデミーに送られた。その書簡には、ペブリン病(pébrine)とよく混同されるもう一つの病気が書かれている。「多くの症例において、この2つの病気は何の関係もない。もしくは、少なくとも直接の関係はない!」(全く関係がないことから、彼の考えの不確かさが明白である)。


1869年

ベシャン

一連の出版物では、次のように締めくくられている:

6 月 8 日⁽⁴²⁾

科学アカデミーに提出された『蚕のミクロザイマ病について(On the Microzymian Disease of Silkworms)』と題された報告書を発表した。この報告書が言うには、ペブリン病(pébrine)よりも致命的であり、後者はクレオソートが予防薬となりうる。しかし、前者は先天的で体質的なものである。ミクロザイマは単独で見られるか、数珠状に連なっているか、もしくは非常に小さなバクテリアの形をしている。

次のような蛾から卵(seeds)を採ってはならない。腹部の内容物を非常に高倍率の顕微鏡で観察して、病気が確認できる場合。顕微鏡は、少なくとも、「obj.7, oc. 1, Nachet」 の組み合わせが最低限必要である。

パストゥール

6 月 29 日⁽⁴³⁾

デュマ(Dumas)に宛てた書簡を、科学アカデミーに送った。その書簡には、モルト・フラット(morts-flats)の病気に最初に注目したのは自分であることを主張していた。そして、今月1日にアレー(Alais)農業協会へ送った通信の内容を発表するよう要求していた。

後者は以下の通り:  フラシェリー病(flacherie)に関連する有機体に言及したもので、先行したジョリー(Joly)とベシャン(Béchamp)の観察に一切言及していない。

この有機体は、おそらく消化器系のトラブルによる必然的な結果と考えられる。


補論

以上のことから、パストゥールが主張する2つの蚕の病気に対する正しい判断の優先権は、―― 『蚕の病気に関する研究(Études sur la Maladie des Vers-a-Soie)』の11ページで繰り返されているが ―― まったく根拠のないものである。


脚注

  1. Comptes Rendus 61, p.506.
  2. Comptes Rendus 61, p.506.
  3. Les Grands Problémes Medicaux, A. Béchamp, p.7.
  4. The Life of Pasteur, René Vallery-Radot, p.133.
  5. Comptes Rendus 62, p.1341.
  6. Comptes Rendus 63, p.126–142.
  7. Comptes Rendus 63, p.311.
  8. ibid, p.391.
  9. Comptes Rendus  64, p.231.
  10. ibid, p.873.
  11. Comptes Rendus 64, p.835.
  12. ibid, p.1049.
  13. ibid, p.1043.
  14. Comptes Rendus 67, p.102.
  15. Les Grands Problémes Médicaux, A. Béchamp, p.26.
  16. Comptes Rendus 64, p.1109 and p.1113.
  17. Les Grands Problémes Médicaux, p.25.
  18. Comptes Rendus 64, p.696.
  19. Comptes Rendus 66, p.421.
  20. ibid, p.366.
  21. Comptes Rendus 66, p.859.
  22. ibid, p.1160.
  23. ibid, p.1289.
  24. Comptes Rendus 67, p.102.
  25. Comptes Rendus 67, p.301.
  26. ibid, p.443.
  27. Les Grands Problémes Médicaux, p.29.
  28. Études sur la Maladie des Vers-a-Soie, Pasteur, p.11.
  29. ibid, p.47.
  30. Études sur la Rage, Dr. Lutaud, pp.427,428.
  31. Comptes Rendus 62, p.1341.
  32. Comptes Rendus 63, p.311.
  33. ibid, p.391.
  34. Comptes Rendus 61, p.506.
  35. Comptes Rendus 63, pp.126–142.
  36. Comptes Rendus 64, p.231.
  37. ibid, p.873
  38. Comptes Rendus 63, p.1043.
  39. Comptes Rendus 64, p.835.
  40. ibid, p.1109.
  41. ibid, p.1113.
  42. Comptes Rendus 66, p. 1160.
  43. ibid, 66, p.1389.

「小さな物体」
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実験室での実験
実験室での実験