ベシャンか?パストゥールか?

第1部

パストゥール:盗作者、詐欺師-病原体説の崩壊


目次


5.蚕の病気: もう一つの盗用

1855年から1865年にかけて、蚕にペブリン(pébrine)と呼ばれる伝染病が広く蔓延し、南フランスに警鐘が鳴らされたばかりか、1865年にはついに全国的な注目を集めるまでになった。ベシャン教授は、1865年の初頭、すべて自費で、他人の助けも借りずに、この疫病の研究に取り組んだ。彼はすぐに、この伝染病が小さな寄生虫によって引き起こされることを突き止めた。

小さな微小有機体に関する彼の長い経験と、1854年と1855年に彼が行ったビーコン実験においてクレオソートがその成長を阻害したという事実から、すぐに打開策を思いついた。

それゆえ、彼は同年、エロー農業協会で、ペブリンは寄生虫病であり、薄いクレオソートの蒸気が寄生虫による害を防ぐと述べることができた。

しかし、その合間に政府はこの問題に関心を持ち、1865年6月にパストゥール氏を派遣してこの病気を調査させた。

パストゥール氏は、政府の正式な代表者という威信を得て、自分の仕事に全神経を集中させることができたのだが、彼はこの任務に就くまで蚕に触ったことがなかったことを認めていた一方で、他者の研究を軽んじていた。

とはいえ、何らかの 「公式な 」活動が行われているという事実があるため、農業協会はベシャン教授のアイディアをすぐに採用するのではなく、パストゥール氏の判断を待つことにした。

パストゥール氏は1865年9月、この新しい課題に関する最初の声明を発表したが、その内容は非常に誤った説明であって、次のように主張している:

「小体は動物性でも植物性でもなく、その形状は多かれ少なかれ癌細胞や肺結核の細胞に似ている。系統的な分類の観点からは、むしろ膿の小滴や血液の小滴、あるいは澱粉の顆粒に近いものとすべきであり、繊毛虫類や カビに近いものではあるまい…。適切な治療法を試みるべきは、幼虫よりもむしろさなぎである」[1]。

この記述は、彼が問題の本質をまったく理解していなかったことを示している。

ベシャン氏のコメントは以下のようなものだった:

「このように、この化学者は、発酵のことで頭がいっぱいで、自分の扱うものが発酵体であるかどうかを判断するところまでに至っていない。」[2]

パストゥール氏はこの頃、父と2人の娘を亡くしたため仕事を中断し、帰郷する前にナポレオン三世の客人としてコンピエーニュ宮殿に1週間滞在した。

1866年2月、彼は再び蚕の問題を取り上げ、今度は数人の有能なフランス人科学者の協力を得たが、問題の解決はほとんど進まなかった。

一方、ベシャン氏はペブリンの研究をさらに進め、『蚕の飼育におけるクレオソートの蒸気の無害性について(原題:On the Harmlessness of the Vapors of Creosote in the Rearing of Silkworms)』と題する論文を科学アカデミーに送った。この論文で彼は、エローの農業協会で述べたことを繰り返し、次のように付け加えた:

「この病気は寄生虫によるものである。ペブリンはまず幼虫を外側から攻撃する。寄生虫となる病原体は空気中からやってくる。 一言で言えば、この病気は本質的に体質的なものではない。」[3]

彼は、蚕の卵や蚕種をクレオソートの臭いがわずかにする囲いの中で育てたところ、ペブリンの全くない卵ができたと述べているのだが、クレオソートをほとんど必要としなかったので、彼の方法は商業的に実用的なものであった。

しかし、パストゥール氏はまだ真の原因を突き止めていなかった。彼は『蚕の病気に関する新しい研究(原題:New Studies on the Disease of Silkworms)』と題する論文をアカデミーに送ったのだが、その中で彼は次のように述べている:

「私は蚕の病気は存在しないと信じたい、と強く思っている。蚕の病気については、肺喘息の影響と比較すること以上に、私の意見を明確にすることはできない。 今年、私が観察した結果、この小さな有機体は動物でもなければ隠花植物でもないという意見が強くなった。小体に変化したり、小体を生成したりするのは、主としてすべての器官の細胞組織であると私には思われる。」[4]

しかし、彼はまたもや見当違いの憶測をした。そして、彼も彼の助手たちも、虚偽の発言内容を証明することはできなかった。

彼はまた、ベシャン氏の論文を叩いて次のように述べた:

「特にムコリーナ(mucorina)の胞子と小体の類似性から、寄生虫が飼育場に侵入したと考えたくなるだろう。それは間違いであるだろう。」

しかし、ベシャン氏は寄生虫以外の何物でもないことを疑問の余地なくすでに証明していた!パストゥール氏は、嫉妬から反対の見解を示したのかもしれない。

パストゥール氏は1862年か1864年まで「自然発生」の考えを捨てていなかったようで、それ以来、発酵のあらゆる兆候や あらゆる病気の原因が空気中に浮遊する細菌であると考えていたにもかかわらず、ここではこの病気が寄生虫によるものであることを否定している! ベシャン氏が論文でそれを証明した後に、である!

ベシャン氏は『蚕の実際の病気の性質に関する研究(原題:Researches of the Nature of the Actual Disease of Silkworms)』と題する論文でこれに答え、寄生虫性であることをさらに証明した。

彼は、活力ある小体だと言った:

「... 病理学的な産物でもなく、膿の小滴や癌細胞、もしくは肺結核に類似したものでもなく、明らかに植物性の細胞である。」[5]

別の論文[6]でベシャン氏は、その小体が糖を転化し、アルコールや酢酸などを生成する組織化された発酵体であることを証明した実験について述べている。

この論文でパストゥール氏はベシャン氏の考えが正しいと確信したようで、1867年1月、教育大臣デュルニー氏に宛てた手紙の中で、蚕の病気に関するベシャン氏の考えはすべて自分の手柄であると主張し始めた。

ベシャン氏は、1867年4月29日にアカデミーが発表した彼の発見をさらに詳しく説明し[7]、同じ号には4月24日付けでパストゥール氏がデュマ氏に宛てた手紙[8]が掲載されていたのだが、その中でパストゥール氏は自分の「過ち」を悔やんでおり、近々この病気に関する完全な内容を掲載した論文を発表することを約束していた。

1867年5月13日、ベシャン氏は科学アカデミーに書簡を送り、パストゥール氏の誤りを指摘し、蚕の病気に関する自身の発見の優位性を認めるよう求めた[9]。 また、『蚕の実際の病気の歴史と活性小体の性質に役立つ新事実(原題:New Facts to Help the History of the Actual Disease of Silkworms and the Nature of the Vibrant Corpuscles)』[10]と題する別の論文も送っている。

この論文で彼は、空気中に浮遊し、桑の葉に付着する小体について述べている。また、ペブリンとは異なる第二の蚕の病気についても述べており、これをフラシェリー(flacherie)と呼び、1867年4月11日に個人的にパンフレットを出版している。

その合間に、彼はさまざまな顕微鏡レベルの有機体に関する論文もいくつか提出し、この課題に関する一般的な知識を多かれ少なかれ広めた[11]。そのうちのひとつが、彼が発見したマイクロザイマス[12]に由来するバクテリアの発生に関する一般的な研究であった。

ベシャン氏は『蚕のマイクロザイマス性疾病について(原題:On  the  Microzymian  Disease  of  Silkworms)』と題する論文[13]の中で、フラシェリーと呼ばれるこの第二の病気について詳しく述べている。この論文は1868年6月8日付で発表され、6月24日、パストゥール氏はデュマ氏に手紙を書き、この第二の蚕の病気を最初に発見したのは自分であると主張し、6月1日にアレー農業協会に送ったと主張するメモを掲載するよう要求した[14](当時の記録にはこの件に関するパストゥール氏の主張の証拠がないため)。

ベシャン氏はこの主張に対して、1867年7月13日付で発表された『蚕のマイクロザイマス性疾病について、パストゥール氏の最近の連絡に関連して(原題:On the Microzymian Disease of Silkworms, in Regard to a Recent Communication of M. Pasteur)』[15]と題するノートで答えており、その中で、1867年4月11日付のパンフレット(1868年3月28日に改訂再版)および、1867年5月13日付および6月10日付の論文について言及しているが、これらはすべてパストゥール氏のどの論文よりも前に発表されたものである。

しかし、パストゥール氏は政府代表としての威信を利用し、周囲を威圧して彼を支持させ、ついに広く認められるようになったので、蚕の病気に関する発見に関するベシャン氏の主張は無視されるようになった。彼の主張が虚偽であることを知っていた人々の大半は、ナポレオン氏の側近、しかも当時のパストゥール氏のような公的地位のある人物に反対することを恐れていたのである。

パストゥール氏は蚕の病気に関する著書[16]の中で、これらの発見の手柄をすべて自分のものとしたが、クレオソートが予防薬であるというベシャン氏の発言を嘲笑することで、自分がいかにこのテーマについて無知であるかを示していた!つまり、パストゥール氏はクレオソートを知っていたのである!

エセル・ヒューム氏によれば、アカデミーの会員たちは実際にベシャン教授にマイクロザイマスという言葉の使用を取りやめるよう、さらには自分の研究をやめるよう求めたというのだ!

『微生物ハンター(原題:Microbe Hunters)』の中で、ポール・ド・クルーフ氏は、蚕に関するパストゥール氏の研究について、上記とは少し異なる見解を示している。老教授であったデュマ氏が、南フランスの養蚕農家を助けるようパストゥール氏に訴えたとし、以下のように続けている:

「他人を尊重しないパストゥール氏は、誰よりも自分を愛し、尊敬していたが、デュマ氏には常に尊敬の念を抱いていた。哀れな老教授を助けなければならない!しかし、どうやって?この時点でパストゥール氏が蚕とミミズを見分けることができたかどうかは疑わしい!実際、最初に繭を与えられて調べたとき、彼はそれを耳に当てて振り、こう叫んだ:『なぜ、この中に何かがいるんだ!』」(p.91)

ド・クルーフ氏はまた、ペブリンが寄生虫病であることを遅まきながら発見したのは、彼の助手の一人であったジェルネズ氏であるとしている:

「ジェルネズ氏は急いでパストゥール氏のところに行った。『謎が解けました』と彼は叫んだ!『小さな球体は生きています。寄生虫です!寄生虫が幼虫を病気にするのです!』。

パストゥール氏がジェルネズ氏の言うことが正しいと確信するまでに6ヵ月を要したが、ようやく理解すると、彼は自分の仕事に舞い戻り、再び委員会を招集した:

『この微小な小体は病気の兆候であるだけでなく、病気の原因でもある。 これらの小球は生きていて、増殖し、蛾の体のあらゆる部分に侵入するのである。』」 (p.95.)

ベシャン氏とパストゥール氏の間で、どちらがペブリンが寄生虫による疾病であることを発見したかをめぐって論争が繰り広げられていたのに、ジェルネズ氏がこの件に関して自身の主張を語らなかったのは奇妙なことである――おそらく仕事の方が重要だったのだろう。

デ・クルーフ氏は続ける:

「彼は45歳だった。そして、この栄光の中にしばらく浸っていた。神とジェルネス氏の助けによって蚕糸業を救ったのだが、彼は、詩人としての天賦の才能である、明るくて、あり得ないが、常に部分的には真実である展望のひとつに向かって目を上げた。 彼は芸術家の目を蚕の病気から人類の悲しみへと向けたのだ:

『私が確信しているように、自然発生説の教義が間違っているのであれば、寄生虫による病気を地球上から消滅させることは人間の力である!』

」 (p.97.)

彼が45歳だったのは1867年のはずで、ベシャン氏は前述のように1855年か56年に自然生成説の誤りを証明している――少なくともその10年前にである。

明らかにド・クルーフ氏は十分に調べていなかった;自然界における微生物の真の役割を理解した唯一の 「微生物ハンター」であるベシャンの名前は、彼の著書『微生物ハンター(原題:Microbe Hunters)』にはまったく出てこないのである!

蚕の研究においてあらゆる誤りを犯していたにもかかわらず、また高い地位と王室からの寵愛を受けていたために、パストゥール氏はこの寄生虫と戦うための実践的な対策を担当することになったのだが、もちろんクレオソート蒸気を使うというベシャン氏の方法を採用することはなかった。

かつて『Journal de Médecine de Paris』誌の編集者であったA.ラテュード博士は、1850年にはフランスは3000万キログラムの繭を生産していたが、1866-7年には疫病の影響で1500万キログラムにまで落ち込んだと報告している。パストゥール氏の「予防」法が採用された後、生産量は1873年には800万キログラムに減少し、その後の数年間は200万キログラムにまで落ち込んだ。彼は続けて次のように述べた:

「これがパストゥールが養蚕を救った方法である! 無知で近視眼的な学者たちの間で、今でも保たれているパストゥール氏の名声が生まれたのである:

  • 彼自身による、不正確な主張
  • 生産者の犠牲の上に大きな利益を得るというパストゥールの技術に基づく微細蚕種を販売する業者たち
  • 何の調査もせずに生産者の苦情に答えるアカデミーや公的機関の加担: 「しかし、養蚕は救われるのです!パスツールの技術を利用しなさい!」と。しかし、他人を破滅させることで自分自身を富ませるような仕組みを、誰もが使いたがるわけではない。
」[17]

明らかに、彼の罪はここで見つかったのだ――少なくとも、養蚕農家と最も親密な関係にある人々には!

このような失敗を考えると、しかもベシャン氏がこれらの病気を予防する方法を示した後に、世間にスキャンダルが広がってもパストゥール氏の評判が落ちなかったのは驚くべきことである!

どうやら王室の寵愛とアカデミーや公的機関が、彼をこのような事態から守ったようだ。


脚注

  1. Comptes Rendus, 61, p.506
  2. Les Grand Problémes Medicaux, p.7
  3. Comptes Rendus, 62, p.1341 (session of June 18 1866)
  4. ibid, 63, pp.126-142 (session of July 23 1866)
  5. Comptes Rendus, 63, p.311 (session of August 13, 1866)
  6. ibid, 63, p.391 (session of August 27, 1866)
  7. ibid, 64, p.873 (session of April 29, 1867)
  8. ibid, 64, p.835 (session of April 29, 1867)
  9. Comptes Rendus, 64, p.1042 (session of April 29 1867)
  10. ibid, 64, p.1043 (session of April 29 1867)
  11. ibid, 64, p.696 and 66, pp.366 and 421
  12. ibid, 66, p.859 (session of May 4 1868)
  13. ibid, 66, p.1160 (session of June 8 1868)
  14. ibid, 66, p.1289 (session of June 29 1868)
  15. ibid, 67, p.102 (session of July 13 1868)
  16. Studies sur le Maladie des Vers-a-sois, 1870
  17. Etudes sur la Rage, pp.427-8